メインコンテンツへスキップ
‹ 教材きょうざい一覧いちらんに戻もどる
社会しゃかい 6年生ねんせい

鎌倉かまくら・室町むろまち・戦国せんごく時代じだい

最終さいしゅう確認かくにん日び:

この章しょうで学まなぶこと

第だい 5 章しょうで学まなんだ平安へいあん時代じだいの終おわりごろ、 都とでは貴き族ぞく が力ちからを 失うしない、 かわって 武士ぶし が政治せいじ の中心ちゅうしん になっていきます。 この章しょうでは、 およそ 400 年ねんつづく 「武士ぶし の時代じだい」 のはじまり 〜 戦せん国ごく の終おわりまでを学まなびます。

  • 鎌倉幕府かまくらばくふ がひらかれた流ながれ (源頼朝みなもとのよりとも・1185 年ねんごろ) を知しる
  • 御恩と奉公ごおんとほうこう という武ぶ士し のしくみを理り解かい する
  • 元寇げんこう (げんこう、 1274・1281) で日本にほんがどう戦たたかったかを知しる
  • 室町幕府むろまちばくふ (足利尊氏あしかがたかうじ)、 金閣きんかく・銀閣ぎんかく、 能のう・茶の湯ちゃのゆ の文ぶん化か を知しる
  • 応仁の乱おうにんのらん (1467) と 戦国時代せんごくじだい の始はじまりを知しる
  • 鉄砲てっぽう (1543) と キリスト教きりすときょう (1549) の伝でん来らい を知しる

ポイント: 鎌倉かまくら・室町むろまち・戦国せんごくの 3 つの時代じだいは、 どれも 武士ぶし が主しゅ役やく です。 でもそれぞれの時代じだいで武ぶ士し の立たち場ば やくらしはちがっていきます。 「武ぶ士し がどう力ちからをつけ、 どう争あらそったか」 を流ながれでつかみましょう。

1. 鎌倉かまくら幕府ばくふのはじまり

平へい安あん時代じだいの終おわりごろ、 都とでは 平氏へいし (平清盛たいらのきよもり を中心ちゅうしん とする一いち族ぞく) が大おおきな力ちからをにぎりました。 しかしやがて平氏へいし に反はん対たい する武ぶ士し が各かく地ち で立たち上あがり、 源頼朝みなもとのよりとも らの 源氏げんじ が平氏へいし を 倒たおします (1185 年ねんごろ、 壇ノ浦の戦いだんのうらのたたかい)。

鎌倉かまくらをえらんだ理り由ゆう

源頼朝みなもとのよりとも は都と (京都きょうと) ではなく、 東国とう の 鎌倉かまくら (今いまの神奈な川かわ県けん) に政治せいじ の中心ちゅうしん をおきました。

鎌倉かまくらをえらんだ理り由ゆうくわしく
三方さんぽうを山やまにかこまれている攻せめにくく、 守まもりやすい
南みなみが海うみ物ものを運はこぶのが楽らく
都とから遠とおい貴族きぞく の影えい響きょう を受うけにくい
関かん東とう の武ぶ士し が多おおい味み方かた が多おおい

1192 年ねんと 1185 年

源頼朝みなもとのよりとも は 1192 年ねんに 征夷大将軍せいいたいしょうぐん に任にん命めいされました。 これが 「いい国くに (1192) つくろう鎌倉かまくら幕府ばくふ」 の語ご呂ろ あわせで有ゆう名めい です。

ただし最さい近きん の研けん究きゅう では、 「1185 年ねん」 (頼朝よりともが全ぜん国こく に 守護しゅご・地頭じとう を置おく権けん利り を得えた年ねん) を 鎌倉幕府かまくらばくふ のはじまりとする考かんがえ方かたが主しゅ流りゅう です。

大事だいじ: 教きょう科か書しょによって 「鎌倉かまくら幕府ばくふのせいりつは 1192 年ねん」 と書かかれているものと 「1185 年ねん」 と書かかれているものがあります。 どちらが正ただしいと一いち概がい には言いえません。 「諸しょ説せつ あり」 を知しっておきましょう。

鎌倉かまくら幕府ばくふのしくみ

役やく職しょく役やく割わり
征夷大将軍せいいたいしょうぐん幕ばく府ふ のトップ (源頼朝みなもとのよりとも が最さい初しょ)
執権しっけん将しょう軍ぐん を助たすける役やく (頼朝よりともの死後しごは 北条氏ほうじょうし が世せ襲しゅう)
守護しゅご国くにごとに置おかれ、 警察けいさつ や軍ぐん事じ を担たん当とう
地頭じとう荘しょう園えん や公おおやけ領りょう に置おかれ、 年ねん貢ぐ の取とり立たてを担たん当とう

2. 御ご恩おんと奉公ほうこう — 武士ぶしのしくみ

鎌倉幕府かまくらばくふ を支ささえたのは 御恩と奉公ごおんとほうこう という、 将しょう軍ぐん と武ぶ士し のあいだの約やく束そく です。

ことば意い味み
御恩ごおん将しょう軍ぐん が武ぶ士し に 土と地ち を守まもる ことや 新あたらしい土と地ち をあたえる こと
奉公ほうこう武ぶ士し が将しょう軍ぐん のために 戦たたかう ことや 京きょう都と・鎌倉かまくらを守まもる こと

将しょう軍ぐん と 御恩と奉公ごおんとほうこう でつながった武ぶ士し を 「御家人ごけにん」 と言いいました。 御家人ごけにん は自じ分ぶん の土と地ち を命いのちがけで守まもる (= 「一いっ所しょけんめい」 = 一いっ生しょうけんめいの語ご源げん) 武ぶ士し でした。

ポイント: 御恩と奉公ごおんとほうこう は、 平へい安あん時代じだいまでの 「貴族きぞく が土と地ち を持もつ」 しくみとはちがいます。 武ぶ士し は 戦たたかうことの見み返かえりに土と地ち をもらう という、 新あたらしい 主従関係しゅうじゅうかんけい を作つくりました。

3. 元もと寇 — 海うみをこえて来きた大軍たいぐん

13 世せい紀き (1200 年代ねんだい) の後こう半はん、 中ちゅう国ごく大たい陸りく で モンゴル が大おおきな国くに (= 元げん) を作つくり、 ヨーロッパの入いり口くちまで広こう範はん囲い を支し配はい しました。 元げん の 5 代だい皇こう帝てい フビライ・ハン は、 日本ほん にも服ふく従じゅう を求もとめてきました。

鎌倉幕府かまくらばくふ の 執権しっけん 北条時宗ほうじょうときむね はこの求もとめを 拒こばんだため、 元げん は 2 度どにわたり日本ほん に 攻せめて来きました。 この戦たたかいを 元寇げんこう と言いいます。

2 度どの来らい襲しゅう

年ねん名な前まえ主おもな戦せん場じょう
1274 年ねん文永の役ぶんえいのえき北きた九きゅう州しゅう (博多はかた わん)
1281 年ねん弘安の役こうあんのえき北きた九きゅう州しゅう (博多はかた わん)

日本ほん が守まもれた理り由ゆう

理り由ゆうくわしく
御家人ごけにん の必ひっ死し の戦たたかい集しゅう団だん戦せん法ほう や 「てつはう」 (火薬かやくの武ぶ器き) に苦く戦せん しながらも戦たたかった
防塁ぼうるい (石せきの壁かべ) を作つくった1 度目どめの後のち、 北きた九きゅう州しゅうの海かい岸がん に石いし垣がき を 築きずいた
暴風雨ぼうふうう2 度どとも日本ほん に強つよい風かぜが 吹ふき、 元げん の船ふねが大おおきな被ひ害がい を受うけた (後ごに 「神風かみかぜ」 と 呼よばれた)

元もと寇のあと

御家人ごけにん たちは戦たたかいに勝かったのに、 新あたらしい土と地ち を得えられませんでした (相手あいて が外がい国こく なので取とれる土と地ち がない)。 このため 御恩と奉公ごおんとほうこう の仕組しくみがくずれ、 鎌倉幕府かまくらばくふ への不ふ満まん が広ひろがり、 やがて 1333 年ねんに幕ばく府ふ はほろびました。

大事だいじ: 元寇げんこう を 「神風かみかぜ のおかげで勝かった」 とだけ言いうのは一いち面めん的てき です。 御家人ごけにん たちの戦たたかい、 防塁ぼうるい の工く夫ふう、 そして暴風ぼう雨う が重かさなった結けっ果か と見みるのが 多面的ためんてき な見方みかたです。

4. 室町むろまち幕府ばくふと北山ほくざん・東山ひがしやま文化ぶんか

鎌倉かまくら幕府ばくふがほろんだあと、 足利尊氏あしかがたかうじ が 1338 年ねんに 室町幕府むろまちばくふ をひらきました。 政治せいじ の中心ちゅうしん はふたたび 京都きょうと にもどりました。

室町むろまち幕府ばくふのしくみ

役やく職しょく役やく割わり
征夷大将軍せいいたいしょうぐん幕ばく府ふ のトップ (足利氏あしかがし が世せ襲しゅう)
管領かんれい将しょう軍ぐん を助たすける役やく (鎌倉かまくらの 執権しっけん にあたる)
守護大名しゅごだいみょう各かく地ち の 守護しゅご が力ちからをつけ、 大おおきな領りょう主しゅ になった

金閣きんかくと銀閣ぎんかく — 二ふたつの文化ぶんか

室町時代むろまちじだい には、 将しょう軍ぐん が 建たてた二ふたつの有ゆう名めい な建物たてもの があります。

金色にかがやく金閣(鹿苑寺)と池に映る姿
金閣きんかく(鹿苑寺ろくおんじ)。室町むろまち幕府ばくふ 3 代将だいしょう軍ぐん 足利義満あしかがよしみつ が京都きょうとの北山きたやまに建たてた、金色きんいろにかがやく北山きたやま文化ぶんかの代表だいひょう。
建物たてもの建たてた将しょう軍ぐん場ば所しょ文ぶん化か
金閣きんかく (鹿苑おん寺)3 代足利義満あしかがよしみつ京きょう都と北部ほくぶ北山文化きたやまぶんか (1390 年代ねんだい、 貴族きぞく と武ぶ士し の文ぶん化か がまじる)
銀閣ぎんかく (慈照しょう寺じ)8 代足利義政あしかがよしまさ京きょう都と東部とうぶ東山文化ひがしやまぶんか (1480 年代ねんだい、 簡かん素そ で落おち着ついた美うつくしさ)

銀閣ぎんかく のそばには、 たたみ・しょうじ・ふすま・床とこの間まを持もつ 書院造しょいんづくり という部へ屋や が作つくられました。 これは今いまの日本ほん の和わ室しつ の元もとになっています。

室町むろまち時代じだいの新あたらしい文化ぶんか

文ぶん化かくわしく
能のう観阿弥かんあみ・世阿弥ぜあみ父ふ子し が大たい成せい。 仮か面めん をつけて舞まう演えん劇げき
狂言きょうげん能のう と一いっ緒しょ に演えんじられる、 こっけいな 劇げき
茶の湯ちゃのゆ茶ちゃを楽たのしむ作さ法ほう。 後ごに 千利休せんのりきゅう が大たい成せい
水墨画すいぼくが墨すみだけでかく絵え (雪舟せっしゅう が有ゆう名めい)
生け花いけばな花はなを美うつくしくいける文ぶん化か

ポイント: 室町文化むろまちぶんか の多おおくは 今いまの日本ほん の 「和わ」 の原げん型けい になっています。 和わ室しつ・茶さ道どう・能のう・生け花いけばな など、 私わたしたちが 「日本ほん らしい」 と 感かんじるものの多おおくがこの時代じだいに生うまれました。

5. 応仁おうにんの乱らんと戦国せんごく時代じだい

8 代将だいしょう軍ぐん 足利義政あしかがよしまさ のあとつぎをめぐって、 1467 年ねんに 応仁の乱おうにんのらん がおこりました。 京きょう都と を主しゅ戦せん場じょう に 11 年ねんつづいた戦たたかいで、 京きょう都と の多おおくの寺てらや町まちが 焼やけました。

応仁おうにんの乱らんのあと

応仁の乱おうにんのらん のあと、 室町幕府むろまちばくふ の力ちからは大おおきく弱よわまり、 各かく地ち で 「力りょくが強つよいものが上うえに立たつ」 という動うごきが広ひろがりました。 これを 「下克上げこくじょう」 と言いいます。

下克こく上じょう で各かく地ち に 現あらわれた大おおきな領りょう主しゅ を 「戦国大名せんごくだいみょう」 と 呼よび、 戦国大名せんごくだいみょう たちが領りょう地ち をめぐって争あらそった約やく 100 年間ねんかんを 戦国時代せんごくじだい と言いいます。

主おもな戦国せんごく大名だいみょう (一いち例れい)

地ち方ほう戦国せんごく大名だいみょう知しられたこと
関かん東とう北ほう条じょう氏し小お田だ原を中心ちゅうしん に関かん東とう を支し配はい
中ちゅう部ぶ武たけ田だ氏甲か斐い (山やま梨なし) を中心ちゅうしん
中ちゅう部ぶ上うえ杉すぎ氏し越えち後ご (新にい潟がた) を中心ちゅうしん
中ちゅう国ごく毛もう利り氏中ちゅう国ごく地ち方ほう を統とう一いつ
東北とうほく伊達だて氏東北とうほくを中心ちゅうしん に力ちからをつけた

大事だいじ: 戦国大名せんごくだいみょう たちは、 領りょう地ち を守まもるために城しろを 築きずき、 家臣かしん を育そだて、 城下町じょうかまち をつくりました。 今いまでも残のこる城しろや 城下町じょうかまち の多おおくはこの時代じだいのものです。

6. 鉄砲てっぽうとキリスト教きょうの伝来でんらい

戦国時代せんごくじだい の中なかごろ、 ヨーロッパから海うみをこえて大おおきな変へん化か がもたらされました。

鉄砲てっぽうの伝来でんらい (1543 年ねん)

1543 年ねん、 中ちゅう国ごく の船ふねに乗のっていた ポルトガル人じん が種子が島しま (鹿児ご島しま県けん) に流ながれつき、 鉄砲てっぽう (火ひ縄なわ 銃じゅう) が日本ほん に伝つたわりました。

鉄砲てっぽう はすぐに国こく内ない でも作つくられるようになり、 戦たたかいのやり方かたが大おおきくかわりました。 鉄砲てっぽう を大量たいりょうに使つかった 戦せん として、 1575 年ねんの 長篠の戦いながしののたたかい (織田信長おだのぶなが が武たけ田だ軍を 破やぶる) が有ゆう名めい です。

キリスト教きょうの伝来でんらい (1549 年ねん)

1549 年ねん、 スペイン人じんの フランシスコ・ザビエルふらんしすこ・ざびえる が鹿児ご島に来きて、 日本ほん に キリスト教きりすときょう を伝つたえました。 ザビエルは山やま口ぐち や京きょう都と でも 布ふ教きょうをしました。

伝来でんらい年ねん場ば所しょ影えい響きょう
鉄砲てっぽう1543種子が島しま (鹿児ご島)戦たたかいの方法ほう が変かわった
キリスト教きょう1549鹿児ご島西日にしび本ほん を中心ちゅうしん に信しん者じゃ が広ひろがった

ポイント: 鉄砲てっぽう とキリスト教きりすときょうの伝でん来らい で、 日本ほん はヨーロッパとつながり始はじめました。 この流ながれが、 次つぎの章しょうで学まなぶ 織田信長おだのぶなが による全ぜん国こく統とう一いつ へとつながります。

7. ふりかえり

この章しょうで学まなんだことをふりかえりましょう。

  • 源頼朝みなもとのよりとも が 鎌倉幕府かまくらばくふ をひらいた流ながれ (1185 年ねんごろ・1192 年征夷大将軍せいいたいしょうぐん) を言いえる
  • 御恩と奉公ごおんとほうこう と 御家人ごけにん のしくみを説せつ明めい できる
  • 元寇げんこう (1274・1281 年ねん) で日本ほん が守まもれた理り由ゆう を 多面的ためんてき に (御家人ごけにんの戦たたかい + 防塁ぼうるい + 暴風ぼう雨う) 言いえる
  • 足利尊氏あしかがたかうじ の 室町幕府むろまちばくふ、 金閣きんかく・銀閣ぎんかく を知しっている
  • 応仁の乱おうにんのらん (1467) と 戦国時代せんごくじだい の関かん係けい が言いえる
  • 鉄砲てっぽう (1543) と キリスト教きりすときょう (1549) の伝でん来らい を言いえる

この章しょうの安全あんぜん配はい慮りょ

歴れき史し を学まなぶために、 城しろや古いにしえ戦せん場じょう など歴れき史し の場ば所しょ を 訪たずねることもあります。 そのときは次つぎのことを守まもりましょう。

  • 城じょうや 史跡しせき では立たち入いり禁きん止し の場ば所しょ に入はいらない — 古ふるい石いし垣がき や木きの床ゆかはこわれやすく、 落おちるとあぶない
  • 古いにしえ戦せん場じょう (戦たたかいのあった場ば所しょ) は静しずかに歩あるく — 多おおくの人ひとが命いのちを落おとした場ば所しょ。 走はしり回まわらず、 写真しゃしんを 撮とるときはマナーを守まもる
  • 史し跡せき の石いしや物ものを持もち帰かえらない — 1 つでも持もち帰かえると、 後ごの人ひとが学まなべなくなる
  • 解かい説せつ 板ばん やガイドの話はなしを聞きく — 自じ分ぶん の思込こみだけで 「こうだった」 と決きめつけない

大事だいじ: 歴れき史し の出来でき事ごと は、 そこに生いきた人ひとたちがいたからこそあります。 「武ぶ士し = かっこいい」 だけでなく、 戦たたかいで命いのちを落おとした人ひとや家か族ぞく の気持きもちも想そう像ぞう することが、 多面的ためんてき な見方みかたです。

次じの章しょう: 第だい 7 章しょうでは、 戦せん国ごく の世よを終おわらせた 織田信長おだのぶなが・豊臣秀吉とよとみひでよし と、 約やく 260 年ねんつづく 江戸幕府えどばくふ (徳川家康とくがわいえやす) の時代じだいを学まなびます。

この教材きょうざいは役やくに立たちましたか?