メインコンテンツへスキップ
‹ 教材きょうざい一覧いちらんに戻もどる
社会しゃかい 6年生ねんせい

飛鳥あすか・奈良なら・平安へいあん時代じだい

最終さいしゅう確認かくにん日び:

この章しょうで学まなぶこと

第だい 4 章しょうで学まなんだ 古墳時代こふんじだいの終おわりごろ、 日本ほん では 大だい和わ 朝ちょう廷てい が大おおきな力ちからを持もち、 中ちゅう国ごく や 朝ちょう鮮せん 半はん島とう とも 関かかわりながら 「国こくのしくみ」 を 整ととのえていきました。

この章しょうでは、 約やく 300 年ねん続つづく 3 つの時代じだい — 飛鳥時代あすかじだい (592 年ねんごろ — 710 年ねん)、 奈良時代ならじだい (710 — 794)、 平安時代へいあんじだい (794 — 1185 ごろ) を学まなびます。

  • 聖徳太子しょうとくたいし が進すすめた 十七条の憲法じゅうしちじょうのけんぽう と 遣隋使けんずいし を知しる
  • 大化の改新たいかのかいしん (645 年ねん) で国くにのしくみがどう変かわったかを知しる
  • 平城京へいじょうきょう と 聖武天皇しょうむてんのう の 東大寺とうだいじ の 大仏だいぶつ を知しる
  • 平安京へいあんきょう と 藤原氏ふじわらし による 摂関政治せっかんせいじ を知しる
  • 国風文化こくふうぶんか (紫式部むらさきしきぶ の 源氏物語げんじものがたり、 清少納言せいしょうなごん の 枕草子まくらのそうし) を知しる
  • 寺てら や 神じん社じゃ を見学けんがくするときのマナーを知しる

ポイント: この 3 つの時代じだいを通とおして、 日本ほん は 「中ちゅう国ごく から学まなぶ」 段だん階かい から 「日本ほん らしい 文ぶん化か を作つくる」 段だん階かい へと進すすみました。 この流ながれを 意い識しき すると、 学まなぶことがつながってきます。

1. 飛鳥あすか時代じだい — 聖徳太子しょうとくたいしと十じゅう七なな条じょうの憲法けんぽう

古墳時代こふんじだいのあと、 6 世せい紀き末のまつから約やく 100 年間ねんかんを 飛鳥時代あすかじだい と言いいます。 名な 前まえ は、 都みやこ が今いまの 奈な良ら県飛鳥あすか 地ち方ほう に置おかれたことから来きています。

聖徳太子しょうとくたいしのせいじ

593 年ねん、 推古天皇すいこてんのう (女じょ 性せい の 天てん皇のう) のもとで 聖徳太子しょうとくたいし (厩戸皇子うまやどのおうじ) がせいじを始はじめました。 聖徳太子しょうとくたいし は 中ちゅう国ごく の 進すすんだせいじを学まなび、 「天てん皇のう を 中心ちゅうしん とした国くにのしくみ」 を作つくろうとしました。

主おもな 改かい革かく

改かい革かく年ねん内ない容よう
冠位十二階かんいじゅうにかい603役やく人にん の 位くらい を 12 段だん階かい に分わけ、 家いえがらではなく 能のう力りょく で 役やく に 就つける
十七条の憲法じゅうしちじょうのけんぽう604役やく人にん の 心こころがまえを 17 か条じょうで定さだめる (「和わ をもって 貴とうとしとなす」 が第だい 1 条じょう)
遣隋使けんずいし607〜小野妹子おののいもこ などを 中ちゅう国ごく (隋ずい) に送おくり、 進すすんだ 文ぶん化か を学まなぶ

飛鳥あすか時代じだいの 仏ぶっ教きょう

聖徳太子しょうとくたいし は 仏ぶっ教きょう を厚あつく 信しんじ、 法隆寺ほうりゅうじ (今いまの 奈な良ら県) を建たてました。 法隆寺ほうりゅうじ は 現げん在ざい 世せ界かい 最さい 古こ の 木もく造ぞう 建けん築ちく として ユネスコゆねすこ の 世せ界かい 文ぶん化か 遺い産さん に 登とう録ろく されています。

大事だいじ: 十七条の憲法じゅうしちじょうのけんぽう は今いまの 日本国憲法にほんこくけんぽう (1947) とは 全ぜん然ぜん ちがうものです。 役やく人にん の 心こころがまえを 示しめしたものであり、 国こく民みん の 権けん利り を定さだめた 法ほう律りつ ではありません。 けれど 「日本ほん で初はじめての国くにの決きまり 」 として大おおきな 意い味み がありました。

2. 大化たいかの改新かいしん (645 年ねん)

聖徳太子しょうとくたいし が 亡なくなったあと、 蘇我氏そがし という 一いち族ぞく が大おおきな力ちからを持もちすぎ、 天てん皇のう をもしのぐほどになりました。

645 年ねんの政せい変へん

645 年ねん、 中大兄皇子なかのおおえのおうじ (のちの 天智天皇てんじてんのう) と 中臣鎌足なかとみのかまたり (のちの 藤ふじ原わら氏の 祖そ) が、 蘇我氏そがし をたおし、 天てん皇のう を 中心ちゅうしん とするせいじを取とりもどしました。 この 一いち連れん の 改かい革かく を 大化の改新たいかのかいしん と言いいます。

大化たいかの改新かいしんの 内ない容よう

改かい革かく内ない容よう
公地公民こうちこうみん土と地ち と 人ひと はすべて国こく (天てん皇のう) のものにする
班田収授はんでんしゅうじゅ6 才以い上じょう の 国こく民みん に田たを分わけ与あたえ、 死しねば国くにに 返かえす
租庸調そようちょう米べいや 布ぬの や 労ろう役えき で 税ぜい金きん を 納おさめるしくみ

律令りつりょう国家こっかへ

このあと、 701 年ねんに 大宝律令たいほうりつりょう ができ、 律りつ令りょう国家こっか (法ほう律りつ で動うごかす国くに) が 完かん成せい しました。 「律りつ」 は 刑けい罰ばつ の 法ほう律りつ、 「令りょう」 は 行ぎょう政せい の 法ほう律りつ です。

ポイント: 大化の改新たいかのかいしん は 「中ちゅう国ごく のような強つよい 中ちゅう央おう のくに」 を 目め指ざした大改かい革かく でした。 このことで日本ほん は 「天てん皇のう を 中心ちゅうしん とした国くに」 として形かたちが 整ととのいました。 なお、 645 年ねんという年号ねんごうや出来事できごとの 細こまかい 解かい釈しゃく には 諸しょ説せつ あり ますが、 大おおきな流ながれはこの通とおりです。

東大寺の大きな木造建築
東大寺とうだいじ 大仏殿だいぶつでん (奈良なら) — 752 年ねん、 聖武天皇しょうむてんのう が建たてさせた 大仏だいぶつ を納おさめる建物たてもの。 現在げんざいの大仏殿だいぶつでんは江戸えど時代じだいの再建さいけんで、 世界せかい最大さいだい級きゅうの木造もくぞう建築けんちく。

3. 奈良なら時代じだい — 平城京へいじょうきょうと大仏だいぶつ

710 年ねん、 元明天皇げんめいてんのう が 都みやこ を 平城京へいじょうきょう (今いまの 奈な良ら市) に移うつしました。 ここから 794 年ねんまでの約やく 80 年間ねんかんを 奈良時代ならじだい と言いいます。

平城京へいじょうきょうのしくみ

平城京へいじょうきょう は 中ちゅう国ごく の 都みやこ 長ちょう安あん (今いまの 西せい安あん) をまねて、 ごばんの目めのように東西とうざい南北なんぼくにきれいに 道みち が通とおる 設せっ計けい でした。 大おおきさは東西とうざい約やく 4.3 km、 南北なんぼく約やく 4.7 km。

聖武天皇しょうむてんのうと東大寺とうだいじの大仏だいぶつ

奈な良ら時代じだいの中なかごろ、 聖武天皇しょうむてんのう が 即そく位い しました。 当とう時じ は 病びょう気き が 流りゅう行こう したり、 自じ然ぜん 災さい害がい が起おきたり、 政治せいじ も 不ふ安あん定てい でした。 聖武天皇しょうむてんのう は 「仏ぶっ教きょう の力ちからで国くにを守まもろう」 と考えかんがえ、 全ぜん国こく に 国こく分ぶん寺じ を、 都みやこ に 東大寺とうだいじ を建たて、 743 年ねんに 大仏だいぶつ (盧舎那仏るしゃなぶつ) を作つくる 命めい令れい を出だしました。

大仏だいぶつの大おおきさ

項こう目もく大おおきさ
高たかさ (すわって)約やく 14.7 m
顔かおの 長ながさ約やく 5.3 m
重おもさ約やく 250 トン
完かん成せい752 年ねん (大仏開眼だいぶつかいがん 法ほう要よう)

奈良なら時代じだいの 文ぶん化か

文ぶん化か内ない容よう
万葉集まんようしゅう日本ほん 最さい 古こ の 和わ歌か 集しゅう (約やく 4500 首くび)
古事記こじき (712)日本ほん の 神しん話わ と 歴れき史し をまとめた書しょ
日本書紀にほんしょき (720)国くにの 正せい 史し (中ちゅう国ごく風の文体ぶんたい)
正倉院しょうそういん聖武天皇しょうむてんのう の持もち物ものを 納おさめた 倉くら (シルクロードの 品しな も)
遣唐使けんとうし中ちゅう国ごく (唐とう) に送おくられた 使し者しゃ (阿倍仲麻呂あべのなかまろ など)

大事だいじ: 正倉院しょうそういん にはペルシャやインドから伝つたわった 品しな が残のこっています。 つまり 8 世せい紀き の日本ほん はすでに シルクロード を通つうじて西にしアジアや 中ちゅう央おう アジアとつながっていたことが分わかります。

4. 平安へいあん時代じだい — 平安京へいあんきょうと国風こくふう文化ぶんか

794 年ねん、 桓武天皇かんむてんのう が 都みやこ を 平安京へいあんきょう (今いまの 京きょう都と市し) に移うつしました。 ここから 1185 年ねんごろまでの約やく 400 年間ねんかんを 平安時代へいあんじだい と言いいます。 日本ほん の 歴れき史し の中なかで最もっとも長ながい時代じだいの 1 つです。

平安京へいあんきょうへ都とを移うつしたわけ

平城京へいじょうきょう では 仏ぶっ教きょう の力ちからが強つよくなりすぎ、 政治せいじ が 乱みだれました。 桓武天皇かんむてんのう は 仏ぶっ教きょう と 距きょ離り を取とるため、 都みやこ を移うつしました。 平安京へいあんきょう も 平城京へいじょうきょう と同おなじように 中ちゅう国ごく の 都みやこ をまねた 設せっ計けい でした。

遣唐使けんとうしの 停てい止し (894 年ねん)

894 年ねん、 菅原道真すがわらのみちざね の 提てい案あん により 遣唐使けんとうし が 停てい止し されました。 唐とう が 衰おとろえていたこと、 危き険けん が増ふえたことが 理り由ゆう です。 これにより日本ほん は 中ちゅう国ごく から学まなぶ 段だん階かい から、 日本ほん らしい 文ぶん化か を育そだてる 段だん階かい へ進すすみました。

国風こくふう文化ぶんか

中ちゅう国ごく のまねではない、 日本ほん 独どく自じ の 文ぶん化か を 国風文化こくふうぶんか と言いいます。 主おもな 特とく色しょく は次つぎのものです。

分ぶん野や例れい
かな文字もじ漢かん字じ をくずして作つくった ひらがな とかたかな
文ぶん学がく紫式部むらさきしきぶ の 源氏物語げんじものがたり (世せ界かい 最さい 古こ の 長ちょう編へん 小しょう説せつ と言いわれる)、 清少納言せいしょうなごん の 枕草子まくらのそうし (随ずい筆ひつ)
絵え大和絵やまとえ (日本ほん の 風ふう景けい や 物語ものがたり を 描えがく)
建けん物もの寝殿造しんでんづくり (貴き族ぞく の 屋や敷しき)
服装ふくそう十じゅう二に単ひとえ (女じょ 性せい 貴き族ぞく)、 束そく帯たい (男だん性せい 貴き族ぞく)

かな文字もじで書かくと

漢かん字じひらがなかたかな
安やすあア (阿おもねから)
以いイ (伊いから)
宇うウ (宇から)
衣ころもえエ (江えから)
於おオ (於おから)

ポイント: 紫式部むらさきしきぶ や 清少納言せいしょうなごん は 当とう時じ の 宮きゅう中ちゅう (天てん皇のう や 貴き族ぞく のくらし) で働はたらく 女じょ 性せい でした。 源氏物語げんじものがたり は 1000 年以い上じょう前に書かかれたお話はなしですが、 今いまでも多おおくの国くにで読よまれています。

5. 藤原ふじわら氏しと摂関せっかん政治せいじ

平へい安あん時代じだいの中なかごろから、 藤原氏ふじわらし という 一いち族ぞく が大おおきな力ちからを持もちました。 藤原氏ふじわらし の 祖そ は、 大化の改新たいかのかいしん で 活かつ躍やく した 中臣鎌足なかとみのかまたり です。

摂関せっかん政治せいじとは

藤原氏ふじわらし は 自じ分ぶん のむすめを 天てん皇のう に 嫁とつがせ、 生うまれた子こを次つぎの 天てん皇のう にし、 自じ分ぶん は 摂政せっしょう (天てん皇のう が 幼おさないときに代かわりにせいじを行おこなう 役やく)・関白かんぱく (天てん皇のう が大人おとなでもそばで助たすける 役やく) としてせいじを動うごかしました。 これを 摂関政治せっかんせいじ と言いいます。

藤原道長ふじわらのみちながの時代じだい

11 世せい紀き初はじめ、 藤原道長ふじわらのみちなが の時ときに 藤原氏ふじわらし は最もっともさかえました。 藤原道長ふじわらのみちなが は 自じ分ぶん の 3 人ひとのむすめを 続つづけて 天てん皇のう のきさきにし、 「この世よをば 我わが世よとぞ思おもふ 望もち月づき の 欠かけたることも無なしと思おもへば」 という歌うたを 詠よんだと伝つたえられています。

武ぶ士し の 登とう場じょう

平へい安あん時代じだいの終おわりごろ、 地ち方ほう で力ちからをつけた 武ぶ士し が 中ちゅう央おう に出でてきました。 中なかでも 平清盛たいらのきよもり は 武ぶ士し として初はじめて 太政大臣だじょうだいじん (せいじの最高さいこう位くらい) となりました (1167 年ねん)。 ここから次つぎの章しょうで学まなぶ 武ぶ家け の時代じだい が始はじまります。

時期じき力ちからを持もった人ひと役やく職しょく
9 世せい紀き藤原良房ふじわらのよしふさ初はつの 摂政せっしょう (人じん臣しん として)
10 世せい紀き藤原基経ふじわらのもとつね初はつの 関白かんぱく
11 世せい紀き藤原道長ふじわらのみちなが・頼より通みち摂関政治せっかんせいじ の 全ぜん盛せい
12 世せい紀き平清盛たいらのきよもり太政大臣だじょうだいじん (武ぶ士し初はつ)

大事だいじ: 平へい安あん時代じだいの後半こうはんは 「摂関政治せっかんせいじ」 のあと、 天てん皇のう の 父ちち や 祖そ父ふ がせいじを動うごかす 「院政いんせい」 の時代じだいを 経へ て、 武ぶ士し が 主しゅ役やく になる時代じだいへと進すすみます。 「なぜ 武ぶ士し が力ちからを持もつようになったのか」 を第だい 6 章しょうでくわしく学まなびます。

6. ふりかえり

この章しょうで学まなんだことをふりかえりましょう。

  • 聖徳太子しょうとくたいし が進すすめた 十七条の憲法じゅうしちじょうのけんぽう・冠位十二階かんいじゅうにかい・遣隋使けんずいし を言いえる
  • 大化の改新たいかのかいしん (645) で国くにがどう変かわったか (公こう地ち 公こう民みん など) を 説せつ明めい できる
  • 平城京へいじょうきょう (710) と 聖武天皇しょうむてんのう の 東大寺とうだいじ の 大仏だいぶつ を知しっている
  • 平安京へいあんきょう (794) と 遣唐使けんとうし の 停てい止し (894) の流ながれを知しっている
  • 国風文化こくふうぶんか (紫式部むらさきしきぶ の 源氏物語げんじものがたり、 清少納言せいしょうなごん の 枕草子まくらのそうし) を言いえる
  • 藤原氏ふじわらし の 摂関政治せっかんせいじ (藤原道長ふじわらのみちなが の時ときが 全ぜん盛せい) を 説せつ明めい できる
  • [ ]平安時代へいあんじだい の終おわりに 平清盛たいらのきよもり が 武ぶ士し として初はじめて 太政大臣だじょうだいじん になったことを知しっている

この章しょうの安全あんぜん配はい慮りょ — お寺てらと 神じん社じゃ のマナー

飛鳥時代あすかじだい の 法隆寺ほうりゅうじ、 奈良時代ならじだい の 東大寺とうだいじ、 平安時代へいあんじだい の 神じん社じゃ やお寺てらは今いまでも 全ぜん国こく に残のこっています。 見学けんがくするときのマナーを守まもりましょう。

ばしょマナー
入いり口くち (山さん門もん・鳥とり居い)一いち礼れい してから入はいる。 鳥とり居い の真まん中なかは 神かみ様さま の通とおり道みちとされ、 はしを歩あるく
本ほん堂どう・本ほん殿でん静しずかに。 帽ぼう子し はぬぐ
写真しゃしん「写しゃ 真しん 禁きん止し」 の 表ひょう示じ がある 場ば所しょ はぜったいに 撮とらない。 大仏だいぶつ や 仏ぶつ像ぞう はフラッシュ 禁きん止し の 場ば所しょ が多おおい
食べ物たべもの・飲のみ物もの境けい内だい (お寺てら・神じん社じゃ の中ちゅう) では食たべ歩あるきせず、 ごみは必かならず持もち帰かえる
走はしらない・さわらない古ふるい 建たて物もの や 仏ぶつ像ぞう はこわれやすい。 さわると 油あぶら や 汗あせ で 傷いたむ
手ちょう水ず神じん社じゃ では 手て と口くちを 清きよめる 場ば所しょ。 順じゅん番ばん を守まもる

大事だいじ: お寺てらや 神じん社じゃ は 「祈いのりの 場ば所しょ」 です。 観かん光こう 客きゃく として 楽たのしむ前まえに、 そこで 祈いのっている人ひとがいることを思おもい出だしましょう。 大おおきな声こえを出だしたり、 列れつ を 乱みだしたりしないことが、 1300 年以い上じょう受うけ 継つがれてきた 文ぶん化か を守まもることになります。

次じの章しょう: 第だい 6 章しょうでは、 平へい安あん時代じだいの終おわりに力ちからをつけた 武ぶ士し が 主しゅ役やく となる 鎌かま倉くら・室むろ町まち・戦せん国ごく時代じだい を学まなびます。 源頼朝みなもとのよりとも・元寇げんこう・応仁の乱おうにんのらん など、 武ぶ家け の時代じだいが始はじまります。

この教材きょうざいは役やくに立たちましたか?