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日本史探究

奈良なら・平安へいあん時代じだい (律令りつりょう国家こっかの発展はってんと変容へんよう)

最終確認日:

この章しょうで学まなぶこと

701 年大宝律令たいほうりつりょうで 律令国家りつりょうこっか が形式けいしき的てきに完かん成せいし、 710 年ねんに 平城京へいじょうきょう へ遷都せんとされました。 ここから 794 年平安京へいあんきょう遷都せんと、 そして摂関政治せっかんせいじ・国風文化こくふうぶんか・院政いんせいを経へて、 1185 年平氏へいし滅亡めつぼうで平安時代へいあんじだいが終おわるまでの約やく 5 世紀せいきを学まなびます。

中学ちゅうがくで学まなんだ 「聖武天皇しょうむてんのうと大仏だいぶつ」 「藤原道長ふじわらのみちなが」 「平清盛たいらのきよもり」 を、 高校こうこうでは 律令国家りつりょうこっかの変容へんよう と 東アジアひがしあじあ国際こくさい秩序ちつじょの変動へんどう のなかで立体りったい的てきに学まなびます。

  • 奈良時代ならじだい (710-794) — 平城京へいじょうきょう・聖武天皇しょうむてんのう・大仏だいぶつ・天平文化てんぴょうぶんか・墾田永年私財法こんでんえいねんしざいほう
  • 平安時代へいあんじだい前期ぜんき (794-9 世紀せいき末まつ) — 平安京へいあんきょう・桓武天皇かんむてんのう・弘仁貞観文化こうにんじょうがんぶんか・最澄さいちょう・空海くうかい
  • 摂関政治せっかんせいじ (10-11 世紀せいき) — 藤原氏ふじわらし・藤原道長ふじわらのみちなが・摂政せっしょう・関白かんぱく
  • 国風文化こくふうぶんか — かな文字かなもじ・源氏物語げんじものがたり・浄土信仰じょうどしんこう
  • 院政いんせい (1086-1185) と武士の登場ぶしのとうじょう
  • 平氏へいし政権せいけん と平清盛たいらのきよもり

大事だいじ: この時代じだいの キー概念がいねん は 「公地公民こうちこうみんから荘園しょうえん公領こうりょう制せいへ」 です。 律令りつりょうが規定きていした 公地公民こうちこうみん は、 8 世紀せいき後半こうはんから崩くずれ始はじめ、 私有しゆう荘園しょうえんが拡大かくだいし、 やがて摂関政治せっかんせいじ・院政いんせい・武家ぶけ政権せいけんへと支配しはい構造こうぞうが変かわっていきます。

1. 奈良なら時代じだい — 平城京へいじょうきょうと律令りつりょう国家こっか

東大寺の大きな木造建築
東大寺とうだいじ大仏殿だいぶつでん (奈良なら) — 752 年聖武天皇しょうむてんのうが建立こんりゅうした大仏だいぶつを納おさめる建物たてもの。 天平文化てんぴょうぶんかの代表だいひょう。
平等院鳳凰堂と池
平等院びょうどういん鳳凰堂ほうおうどう (京都きょうと府ふ宇治うじ市し、 1053 年ねん) — 藤原頼通ふじわらのよりみち建立こんりゅう。 国風文化こくふうぶんか・浄土信仰じょうどしんこうの代表だいひょう作さく。

平城京へいじょうきょう遷都せんと (710 年ねん)

710 年ねん、 元明天皇げんめいてんのう が 藤原京ふじわらきょう から 平城京へいじょうきょう (奈良なら市し) に遷都せんとしました。 平城京へいじょうきょうは唐とうの 長安ちょうあん を模もした都城みやこのじょうで、 条坊制じょうぼうせいの街路がいろ、 羅城門らじょうもんから朱雀大路すざくおおじ・朱雀門すざくもんを経へて大内裏だいだいりに至いたる構造こうぞうを持もちました。

  • 面積めんせき約やく 25 平方キロメートルへいほうきろめーとる、 人口じんこう約 10 万まん人にん (推すい定てい)
  • 左京さきょう・右京うきょう に分わかれ、 東ひがしに外京げきょうが張はり出だす
  • 東大寺とうだいじ・興福寺こうふくじ・法華寺ほっけじ など大だい寺院じいんが林立りんりつ

班田収授はんでんしゅうじゅと公民こうみんの負担ふたん

律令国家りつりょうこっかは 6 歳とし以上いじょうの公民こうみんに 口分田くぶんでん を与あたえる 班田収授はんでんしゅうじゅ制せい を行おこないました。 公民こうみんは国くにから土地とちを借かりる代かわりに税ぜいを負担ふたんしました。

税ぜい内容ないよう
租そ口分田くぶんでんからの収穫しゅうかくの約やく 3%
庸よう都とでの労役ろうえき 10 日にち、 または布ぬの
調ちょう特産品とくさんひん (絹きぬ・糸いと・海産物かいさんぶつ)
雑徭ぞうよう地方ちほうでの年ねん 60 日にち以内いないの労役ろうえき
兵役へいえき軍団ぐんだん・防人さきもり (3 年ねん)

大事だいじ: 律令制りつりょうせいの公民こうみん負担ふたんは重おもく、 とくに 防人さきもり (北部九州ほくぶきゅうしゅう防衛ぼうえい) と 雑徭ぞうよう が過か酷こくでした。 「万葉集まんようしゅう」 には 防人さきもりの歌うた が多おおく残のこされ、 当とう時じの庶民しょみん感情かんじょうを知しる一次資料いちじしりょうとなっています。

政争せいそうの時代じだい

奈良時代ならじだいは 政争せいそう が続つづいた時代じだいでもありました。

年ねん事件じけん
729 年ねん長屋王ながやおうの変へん — 藤原ふじわら 4 兄弟きょうだいが長屋王ながやおうを陥おとしいれる
740 年ねん藤原広嗣ふじわらのひろつぐの乱らん — 九州きゅうしゅうで反乱はんらん
757 年ねん橘奈良麻呂たちばなのならまろの変へん
764 年ねん恵美押勝えみのおしかつ (藤原仲麻呂ふじわらのなかまろ) の乱らん

聖武天皇しょうむてんのうと大仏だいぶつ造立ぞうりゅう

聖武天皇しょうむてんのう (在ざい位い 724-749) は、 天然痘てんねんとう流行りゅうこう・長屋王の変ながやおうのへん・藤原広嗣の乱ふじわらのひろつぐのらんなど不安ふあんな時代じだいに、 仏教ぶっきょうによる国家こっか安寧あんねい (鎮護ちんご国家こっか) を願ねがいました。

  • 741 年ねん: 国分寺こくぶんじ・国分尼寺こくぶんにじ建立こんりゅうの詔みことのり — 各国かっこくに国分寺こくぶんじを建たてる
  • 743 年ねん: 大仏だいぶつ造立ぞうりゅうの詔みことのり — 紫香楽宮しがらきのみやで発ほつ願がん
  • 752 年ねん: 東大寺とうだいじ大仏だいぶつ開眼かいがん供養くよう (インド僧そう菩提僊那ぼだいせんな導師どうし、 孝謙天皇こうけんてんのう時代じだい)

墾田永年私財法こんでんえいねんしざいほう (743 年ねん)

班田収授はんでんしゅうじゅが行いき詰づまり、 政府せいふは新田にった開発かいはつを奨しょう励れいしました。

  • 723 年ねん: 三世一身法さんぜいっしんほう — 新田にったを 3 世代せだいまで私有しゆう可か
  • 743 年ねん: 墾田永年私財法こんでんえいねんしざいほう — 新田にったを 永年えいねん私有しゆう 可か

大事だいじ: 墾田永年私財法こんでんえいねんしざいほうは 公地公民こうちこうみん原則げんそくの実質じっしつ的てきな転換てんかん を意味いみします。 これ以い降こう、 貴族きぞく・寺社じしゃ・豪族ごうぞくが私有地しゆうち (= 荘園しょうえん の原型げんけい) を拡大かくだいし、 やがて摂関政治せっかんせいじの経済けいざい基盤きばんとなります。

天平文化てんぴょうぶんか

聖武天皇しょうむてんのう期き (天てん平ぴょう年間ねんかん) を中心ちゅうしんとする文化ぶんかを 天平文化てんぴょうぶんか と呼よび、 国際こくさい色しょくが豊ゆたかです。

分野ぶんや代表だいひょう
彫刻ちょうこく東大寺とうだいじ盧舎那仏るしゃなぶつ、 興福寺こうふくじ阿修羅像あしゅらぞう、 唐招提寺とうしょうだいじ鑑真がんじん像ぞう
建築けんちく東大寺とうだいじ正倉院しょうそういん校倉造あぜくらづくり、 唐招提寺とうしょうだいじ金堂こんどう
文芸ぶんげい古事記こじき (712)・日本書紀にほんしょき (720)・風土記ふどき・万葉集まんようしゅう (8 世紀せいき後半こうはん)
絵画かいが正倉院しょうそういん宝物ほうもつ (ペルシア・インド由来ゆらいの品しな多数たすう)

ポイント: 正倉院しょうそういん は聖武天皇しょうむてんのう・光明皇后こうみょうこうごうゆかりの品しなを収おさめる宝物殿ほうもつでんで、 シルクロードしるくろーどを経由けいゆしたペルシア・インド由来ゆらいの宝物ほうもつが多おおく残のこり、 「シルクロードしるくろーどの終着駅しゅうちゃくえき」 とも呼よばれます。

2. 平安京へいあんきょうと平安へいあん前期ぜんき

桓武天皇かんむてんのうと平安京へいあんきょう遷都せんと

奈良時代ならじだい末期まっき、 僧そう 道鏡どうきょう が孝謙こうけん (称しょう徳とく) 天皇てんのうに寵ちょう愛あいされて政治せいじに関与かんよしたことから、 寺院じいん勢力せいりょくから離はなれる ために遷都せんとが図はかられました。

  • 784 年ねん: 長岡京ながおかきょう 遷都せんと (失しっ敗ぱい、 藤原種継ふじわらたねつぎ暗殺あんさつ事件じけんなど)
  • 794 年ねん: 平安京へいあんきょう遷都せんと (京都きょうと) — 桓武天皇かんむてんのう による

桓武天皇かんむてんのうの二大にだい事業じぎょう

桓武天皇かんむてんのうは 平安京へいあんきょう造営ぞうえい と 蝦夷えみし征討せいとう を進すすめ、 国家こっか財政ざいせいを圧あっ迫ぱくしました。

  • 802 年ねん: 坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろ が 征夷大将軍せいいたいしょうぐん として蝦夷えみしを平定へいてい、 アテルイ降伏ごうぶく
  • 805 年ねん: 徳政とくせい相論そうろん — 藤原緒嗣ふじわらのおつぐが 「軍事ぐんじ・造作ぞうさくが民みんを苦くるしめる」 と進言しんげん、 二大にだい事業じぎょう中止ちゅうし

嵯峨天皇さがてんのうと弘仁・貞観文化こうにん・じょうがんぶんか

嵯峨天皇さがてんのう (在ざい位い 809-823) は 蔵人所くろうどどころ や 検非違使けびいし など令外官りょうげのかんを設せっ置ちし、 律令制りつりょうせいの補完ほかんを行おこないました。

平安へいあん初期しょきの文化ぶんかを 弘仁・貞観文化こうにん・じょうがんぶんか と呼よび、 唐とう文化ぶんかの影響えいきょうが強つよく、 密教みっきょうが中心ちゅうしんです。

最澄さいちょうと空海くうかい

僧そう宗そう寺てら主しゅ著ちょ
最澄さいちょう天台宗てんだいしゅう比叡山ひえいざん延暦寺えんりゃくじ「山家学生式さんげがくしょうしき」
空海くうかい真言宗しんごんしゅう高野山こうやさん金剛峯寺こんごうぶじ、 東寺とうじ「三教指帰さんごうしいき」

両りょう僧そうとも 804 年遣唐使けんとうしで唐とうに留学りゅうがくし、 密教みっきょうを持もち帰かえりました。

3. 摂関せっかん政治せいじ

藤原氏ふじわらしの他氏たし排斥はいせき

9 世紀せいきから 11 世紀せいきにかけて、 藤原氏ふじわらし (北きた家か) が 他氏たし を排斥はいせきして摂政せっしょう・関白かんぱくを独占どくせんしました。

年ねん事件じけん
866 年ねん応天門の変おうてんもんのへん — 伴善男ばんよしお失脚しっきゃく
887 年ねん阿衡あこう事件じけん — 藤原基経ふじわらのもとつねの関白かんぱく初任しょにん
901 年ねん菅原道真すがわらのみちざね左遷させん — 藤原時平ふじわらのときひらが菅原道真すがわらのみちざねを太宰府だざいふへ
969 年ねん安和あんなの変へん — 源高明みなもとのたかあきら失脚しっきゃく

摂政せっしょうと関白かんぱく

  • 摂政せっしょう — 天皇てんのうが幼少ようしょうのとき、 政務せいむを代行だいこう
  • 関白かんぱく — 天皇てんのう成人せいじん後ごも政務せいむを補佐ほさ

藤原良房ふじわらのよしふさ (858 年摂政せっしょう) が皇族こうぞく以外いがいで初はつの摂政せっしょう、 藤原基経ふじわらのもとつね (884 年関白かんぱく) が初はつの関白かんぱくです。

藤原道長ふじわらのみちながと摂関政治せっかんせいじの全盛ぜんせい

藤原道長ふじわらのみちなが (966-1028) は、 4 人ひとの娘むすめを天皇てんのう皇后こうごうとして、 祖父そふとして政治せいじを掌握しょうあくしました (= 外戚がいせき政治せいじ)。

「この世よをば我わが世よとぞ思おもふ望月もちづきの欠かけたることも無なしと思おもへば」

この歌うたは寛仁かんじん 2 年ねん (1018 年ねん)、 道長みちながが 3 人目ひとめの娘威子いし を後一条天皇ごいちじょうてんのう中宮ちゅうぐうに立たてた祝宴しゅくえんで詠よんだもので、 「小右記しょううき」 (藤原実資ふじわらのさねすけ日記にっき) に記しるされます。

摂関政治せっかんせいじの経済けいざい基盤きばん

  • 寄進きしん地系ちけい荘園しょうえん — 地方ちほう豪族ごうぞくが国司こくしの税ぜいを逃のがれるために中央ちゅうおう貴族きぞくへ寄進きしん
  • 不輸ふゆ・不入ふにゅうの権けん — 税ぜい免除めんじょと国司こくし立入たていり拒否きょひ
  • 藤原氏ふじわらしは全国ぜんこくに広大こうだいな荘園しょうえんを集あつめ、 その収益しゅうえきが摂関政治せっかんせいじを支ささえた

4. 国風こくふう文化ぶんか

遣唐使けんとうし停止ていし (894 年ねん)

菅原道真すがわらのみちざね が 遣唐使けんとうし停止ていし を建議けんぎし、 宇多天皇うだてんのうがこれを採用さいようしました。 唐とうの衰退すいたいと渡航とこうの危険きけんが理由りゆうとされますが、 諸説しょせつあります。

諸説しょせつ注意ちゅうい: 菅原道真すがわらのみちざねの建議けんぎが 遣唐使けんとうし廃止はいし を意味いみしたのか、 それとも 当年とうねんの派遣はけん延期えんき を意味いみしたのかは諸説しょせつあります。 結果けっかとして正式せいしきな遣唐使けんとうしはこれ以い降こう派遣はけんされず、 907 年唐とう滅亡めつぼうで消滅しょうめつしました。

国風文化こくふうぶんかの特色とくしょく

遣唐使けんとうし停止ていし以い降こう、 唐とう文化ぶんかの直接ちょくせつ流入りゅうにゅうが減へり、 日本にほん独自どくじの 国風文化こくふうぶんか が育そだちました。

  • かな文字かなもじ (平仮名ひらがな・片仮名かたかな) の発達はったつ — 漢字かんじの草書そうしょ体からだから
  • 寝殿造しんでんづくり — 貴族きぞく住宅じゅうたく様式ようしき
  • 大和絵やまとえ — 屏風絵びょうぶえ・絵巻物えまきもの
  • 束帯そくたい・十二単じゅうにひとえ — 貴族きぞくの正装せいそう

文学ぶんがく作品さくひん

作品さくひん作者さくしゃ内容ないよう
古今和歌集こきんわかしゅう (905)紀貫之きのつらゆきら初はつの勅撰和歌集ちょくせんわかしゅう
土佐日記とさにっき (935 ごろ)紀貫之きのつらゆきかな文字かなもじ日記にっき
枕草子まくらのそうし (1000 ごろ)清少納言せいしょうなごん随筆ずいひつ、 一条天皇いちじょうてんのう皇后こうごう定子さだこサロン
源氏物語げんじものがたり (1008 ごろ)紫式部むらさきしきぶ長編ちょうへん物語ものがたり、 一条天皇いちじょうてんのう中宮ちゅうぐう彰子あきこサロン

大事だいじ: 源氏物語げんじものがたりは 世界せかい最古さいこの長編ちょうへん小説しょうせつ と言いわれ、 2008 年ねんに源氏物語げんじものがたり千年紀せんねんきが祝しゅくわれました。 世界せかい各国かっこく語かたりに翻訳ほんやくされ、 日本にほん文化ぶんか発信はっしんの象徴しょうちょうとなっています。

浄土信仰じょうどしんこう

10 世紀せいき後半こうはんから 末法まっぽう思想しそう (1052 年ねんから末法まっぽうに入はいるとされた) が広ひろまり、 阿弥陀如来あみだにょらいに極楽ごくらく往生おうじょうを願ねがう 浄土信仰じょうどしんこう が流りゅう行こうしました。

  • 空也くうや (10 世紀せいき中ちゅう) — 市井しせいで念仏ねんぶつを広ひろめた市の聖いちのひじり
  • 源信げんしん (恵心僧都えしんそうず、 「往生要集おうじょうようしゅう」 985) — 浄土じょうど思想しそうを体系化たいけいか
  • 平等院びょうどういん鳳凰堂ほうおうどう (1053、 藤原頼通ふじわらのよりみち) — 阿弥陀如来あみだにょらい像ぞう安置あんち、 10 円えん硬貨こうかの図案ずあん

5. 院政いんせいと武士ぶしの登場とうじょう

院政いんせいの開始かいし (1086 年ねん)

11 世紀せいき末まつ、 摂関せっかん家いえの影響えいきょうから離はなれた 白河天皇しらかわてんのう が、 1086 年ねんに幼帝ようてい堀河天皇ほりかわてんのうに譲位じょういして 上皇じょうこう となり、 院庁いんちょう で政治せいじを主導しゅどうする 院政いんせい を始はじめました。

  • 白河上皇しらかわじょうこう (院政いんせい 1086-1129) — 「賀茂川かもがわの水みず、 双六すごろくの賽さい、 山法師やまほうし、 これぞ我わが心こころにかなわぬもの」
  • 鳥羽上皇とばじょうこう (院政いんせい 1129-1156)
  • 後白河上皇ごしらかわじょうこう (院政いんせい 1158-1192) — 平氏へいし・源氏げんじとの政争せいそう

院政いんせいの特色とくしょく

  • 摂関せっかんを超ちょうえて実権じっけんを握にぎる
  • 院近臣いんのきんしん (院いんに仕つかえる側近そっきん) を登用とうよう
  • 北面の武士ほくめんのぶし (白河しらかわ創設そうせつ) — 院いん警護けいごの武士ぶし
  • 寺社じしゃ勢力せいりょく (興福寺こうふくじ・延暦寺えんりゃくじの 僧兵そうへい) との軋あつ轢れき

武士ぶしの起源きげん

武士ぶしの起源きげんには諸説しょせつあります。

  • 在地ざいち領主りょうしゅ 論ろん — 地方ちほう豪族ごうぞくが自衛じえいして武士ぶし化
  • 国衙こくが軍制ぐんせい 論ろん — 国司こくし配下はいかの軍事ぐんじ組織そしき
  • 職能しょくのう論ろん — 戦いくさを職能しょくのうとする家いえの出現しゅつげん

10 世紀せいき前半ぜんはんの 平将門の乱たいらのまさかどのらん (935-940) と 藤原純友の乱ふじわらのすみとものらん (939-941) (= 承平・天慶の乱じょうへい・てんぎょうのらん) で、 源氏げんじ・平氏へいしなどの武士ぶし団だんが国家こっかから認みとめられました。

源氏げんじと平氏へいし

氏し出自しゅつじ主おもな拠点きょてん
清和源氏せいわげんじ清和天皇せいわてんのう孫まご経基王つねもとおう東国とうごく
桓武平氏かんむたいらし桓武天皇かんむてんのう曾孫そうそん高望王たかもちおう東国とうごく・西国さいこく

保元ほうげん・平治へいじの乱らん

年ねん戦せん内容ないよう
1156保元の乱ほうげんのらん後白河天皇ごしらかわてんのう vs 崇徳上皇すとくじょうこう、 平清盛たいらのきよもり・源義朝みなもとのよしともが後白河ごしらかわ側がわで勝利しょうり
1159平治の乱へいじのらん平清盛たいらのきよもり vs 源義朝みなもとのよしとも、 清盛きよもり勝利しょうり、 源頼朝みなもとのよりとも流る罪ざい

6. 平氏へいし政権せいけん

平清盛たいらのきよもりと平氏へいし政権せいけん

平治の乱へいじのらん後、 平清盛たいらのきよもり (1118-1181) は 後白河上皇ごしらかわじょうこう と結むすびつつ、 政界せいかいを制せいしました。

  • 1167 年ねん: 太政大臣だじょうだいじん に就任しゅうにん — 武士ぶし初はつ
  • 娘むすめ徳子とくこを高倉天皇たかくらてんのう皇后こうごうに → 子こが安徳天皇あんとくてんのう = 外戚がいせき政治せいじ
  • 日宋貿易にっそうぼうえき — 大輪田泊おおわだのとまり (現げん神戸こうべ) 整備せいび、 宋銭そうせん輸入ゆにゅう

平氏へいしの滅亡めつぼう

平氏へいしの専制せんせいに反発はんぱつが高たかまり、 1180 年源頼朝みなもとのよりともが 挙兵きょへい (治承じしょう・寿永じゅえいの内乱ないらん)。 1185 年ねん 壇ノ浦の戦いだんのうらのたたかい で平氏へいし滅亡めつぼう、 安徳天皇あんとくてんのう入水じゅすい。

諸説しょせつ注意ちゅうい: 「鎌倉幕府かまくらばくふ成立せいりつ年ねん」 を ① 1185 年ねん (守護しゅご・地頭じとう設せっ置ち)、 ② 1192 年ねん (源頼朝みなもとのよりとも征夷大将軍せいいたいしょうぐん任命にんめい) のどちらにするかは諸説しょせつあります。 現在げんざいの教科書きょうかしょは 1185 年ねん を重ちょう視する傾向けいこうにありますが、 諸説しょせつがあることを知しっておきましょう。

7. ふりかえり

この章しょうで学まなんだことを確かく認にんしましょう。

  • [ ]平城京へいじょうきょう遷都せんと (710)・班田収授はんでんしゅうじゅ・租そ・庸よう・調ちょう・防人さきもりを説せつ明めいできる
  • [ ]聖武天皇しょうむてんのう・国分寺こくぶんじ・大仏だいぶつ (752)・天平文化てんぴょうぶんか・正倉院しょうそういんを説せつ明めいできる
  • [ ]墾田永年私財法こんでんえいねんしざいほう (743) が 公地公民こうちこうみんの転換てんかん点てん であることを言いえる
  • [ ]平安京へいあんきょう遷都せんと (794)・桓武天皇かんむてんのう・坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろ・嵯峨天皇さがてんのう・最澄さいちょう・空海くうかいを説せつ明めいできる
  • [ ]摂関政治せっかんせいじ・藤原道長ふじわらのみちなが・寄進地系荘園きしんちけいしょうえん・不輸不入の権ふゆふにゅうのけんを説せつ明めいできる
  • [ ]遣唐使けんとうし停止ていし (894)・国風文化こくふうぶんか・かな文字かなもじ・源氏物語げんじものがたり・枕草子まくらのそうし・古今和歌集こきんわかしゅうを知しっている
  • [ ]浄土信仰じょうどしんこう・末法思想まっぽうしそう・源信げんしん往生要集おうじょうようしゅう・平等院びょうどういん鳳凰堂ほうおうどうを知しっている
  • [ ]白河上皇しらかわじょうこう院政いんせい (1086)・北面の武士ほくめんのぶし・僧兵そうへいを説せつ明めいできる
  • [ ]武士ぶしの起源きげん諸説しょせつ・平将門の乱たいらのまさかどのらん・藤原純友の乱ふじわらのすみとものらんを知しっている
  • [ ]保元の乱ほうげんのらん (1156)・平治の乱へいじのらん (1159)・平清盛たいらのきよもり・日宋貿易にっそうぼうえき・壇ノ浦の戦いだんのうらのたたかい (1185) を説せつ明めいできる
  • [ ]鎌倉幕府かまくらばくふ成立せいりつ年ねん (1185 / 1192) の諸説しょせつを知しっている

この章しょうの安全あんぜん配慮はいりょ (文化財ぶんかざいを大切たいせつに・古典こてん学習がくしゅうの心得こころえ)

奈良なら・平安へいあん時代じだいの学習がくしゅうでは、 つぎのことを必かならず守まもりましょう。

  • 寺院じいん・神社じんじゃ見学けんがく では、 本堂ほんどう・仏像ぶつぞうの前まえでは静しずかに。 フラッシュ撮影さつえい禁止きんしや撮影さつえい禁止きんしエリアの表示ひょうじを必かならず守まもる
  • 正倉院しょうそういん宝物ほうもつ や 国宝こくほう仏像ぶつぞう には直接ちょくせつ触ふれない (皮脂ひしや湿気しっけが文化財ぶんかざいを傷いためる)
  • 博物館はくぶつかん・美術館びじゅつかんでの ガラスケース を叩たたかない、 展示てんじに寄よりかからない
  • 古典こてん作品さくひん (「源氏物語げんじものがたり」 「枕草子まくらのそうし」 「万葉集まんようしゅう」 等とう) を読よむときは、 現代語訳げんだいごやくと原文げんぶんの両方りょうほう に触ふれる。 現代げんだいの感覚かんかくで古ふるい作品さくひんを安易あんいに批判ひはんせず、 当とう時じの時代じだい背景はいけいを尊重そんちょうする
  • 摂関政治せっかんせいじや院政いんせいの評価ひょうかについては、 戦前せんぜんの 皇国史観こうこくしかん が 「摂関せっかん・院政いんせいは天皇てんのうの本来ほんらい姿すがたではない」 と批判ひはん的てきに描えがいてきた歴史れきしがある。 現在げんざいは 実証じっしょう的な政治せいじ史ふみ として中ちゅう立りつに学まなぶ

次じの章しょう: 第だい 5 章しょうでは、 鎌倉時代かまくらじだい と 室町時代むろまちじだい を学まなびます。 源頼朝みなもとのよりともから応仁の乱おうにんのらんまでの 中世ちゅうせい武家ぶけ政権せいけん の約やく 4 世紀せいきを通とおして、 公家くげと武家ぶけの力ちから関係かんけい、 元寇げんこう、 北山きたやま・東山ひがしやま文化ぶんかを学まなびます。

まとめ — 奈良なら・平安へいあん時代じだいを 3 行くだりで

  • 奈良時代ならじだいは平城京へいじょうきょうを中心ちゅうしんに聖武天皇しょうむてんのうの大仏だいぶつ造立ぞうりゅうと天平文化てんぴょうぶんかが栄さかえ、 墾田永年私財法こんでんえいねんしざいほうが公地公民こうちこうみんを揺ゆらがせた
  • 平安時代へいあんじだい初期しょきは平安京へいあんきょう遷都せんとと律令りつりょう再編さいへん、 中期ちゅうきに藤原ふじわら氏しの摂関政治せっかんせいじと国風文化こくふうぶんかが全盛ぜんせいとなり寄進地系荘園きしんちけいしょうえんが拡大かくだい
  • 後期こうきに院政いんせいと北面の武士ほくめんのぶしで院いんが力ちからを持もち、 武士ぶしが政治せいじの表おもて舞台ぶたいに登場とうじょうする中世ちゅうせいへの転換期てんかんきとなった
この教材きょうざいは役やくに立たちましたか?
学がく習しゅうロードマップ(10件けん)
  1. 1日本にほん史し探究たんきゅう入門にゅうもん (歴史れきし的てき思考しこうと史料しりょう)
  2. 2原始時代げんしじだい (旧きゅう石器せっき・縄文じょうもん・弥生やよい)
  3. 3古墳こふん・飛鳥あすか時代じだい (古代こだい国家こっかの成立せいりつ)
  4. 4奈良なら・平安へいあん時代じだい (律令りつりょう国家こっかの発展はってんと変容へんよう)
  5. 5鎌倉かまくら・室町むろまち時代じだい (中世ちゅうせい武家ぶけ政権せいけん)
  6. 6戦国せんごく・安土あづち桃山ももやま時代じだい (中世ちゅうせい末まつから近世きんせいへ)
  7. 7江戸えど時代じだい (近世きんせい社会しゃかいの確立かくりつ)
  8. 8幕末ばくまつ・明治維新めいじいしん (近代きんだい化かの出発しゅっぱつ、 1853-1889)
  9. 9明治めいじ後期こうき・大正たいしょう・昭和しょうわ前期ぜんき (帝国ていこく主義しゅぎと戦争せんそう、 1890-1945)
  10. 10戦後せんご日本にほん (現代げんだい、 1945- )