この章で学ぶこと
3 世紀後半、 奈良盆地を中心に ヤマト王権 が形成され、 巨大な 古墳 が各地に築かれました。 やがて 6 世紀末に聖徳太子 (厩戸王) が政治改革を始め、 大化の改新を経て、 7 世紀末に律令国家の基礎が出来上がります。
中学で学んだ 「聖徳太子」 「大化の改新」 を、 高校では ヤマト王権形成過程、 東アジア国際関係、 そして 諸説 を含めて深く学びます。
- 古墳時代 (3-7 世紀) — 前方後円墳・ヤマト王権・氏姓制度
- 飛鳥時代 (6 世紀末 -710 年) — 聖徳太子・冠位十二階・十七条憲法・遣隋使
- 大化の改新 (645 年) と公地公民
- 白村江の戦い (663 年) と国家再編
- 壬申の乱 (672 年) と天武天皇の律令整備
- 飛鳥文化 と 白鳳文化
大事: この時代は 文字史料が増え始める 時期です。 「古事記」 「日本書紀」 「風土記」 が編纂され、 木簡や金石文も出土します。 また中国史書 (「宋書」 「隋書」) が 倭 の動向を伝えます。 つまり 考古資料と文字史料の両方 から立体的に描ける時代です。
1. 古墳時代とヤマト王権
大仙古墳 (大阪府堺市、 5 世紀) — 全長約 486 m の前方後円墳。 仁徳天皇陵と伝えられるが諸説あり。
法隆寺 (奈良県斑鳩町、 607 年創建と伝わる) — 現存する世界最古の木造建築。 聖徳太子が建立と伝わるが諸説あり。
古墳の出現
3 世紀後半、 奈良盆地を中心に 前方後円墳 と呼ばれる巨大な墳墓が築かれ始めます。 このころから 7 世紀末までを 古墳時代 と呼びます。
| 期 | 大体の年代 | 主な古墳 |
|---|
| 前期 | 3 世紀後半 - 4 世紀 | 箸墓古墳 (奈良・纏向) |
| 中期 | 5 世紀 | 大仙古墳 (大阪・仁徳天皇陵古墳) |
| 後期 | 6 世紀 - 7 世紀 | 群集墳・横穴式石室 |
大仙古墳と 「世界三大墳墓」
大阪府堺市の 大仙古墳 (仁徳天皇陵古墳とされる) は、 全長約 486 メートルの日本最大の前方後円墳で、 エジプトのクフ王ピラミッド、 中国の始皇帝陵と並んで 「世界三大墳墓」 と呼ばれます (面積比較で)。 2019 年に 百舌鳥・古市古墳群 としてユネスコ世界遺産に登録されました。
諸説注意: 「仁徳天皇陵」 とされていますが、 実際に仁徳天皇が埋葬されているかは確証がない ため、 考古学では 大仙古墳 または 大山古墳 と呼ぶことが一般的です。 宮内庁は陵墓として管理しており、 発掘調査が厳しく制限されています。
ヤマト王権の形成
古墳の分布と形式から、 奈良盆地を中心とする ヤマト王権 が列島各地の豪族を統合していったことが分かります。
- ヤマト王権の首長 = 大王 (おおきみ、 後の天皇の原型)
- 各地の豪族がヤマトと同じ形式の古墳を作る = 政治統合のしるし
- ヤマトから豪族に 銅鏡 や 玉 が配布された (副葬品から分かる)
氏姓制度
ヤマト王権は、 豪族を 氏 (血縁集団) と 姓 (政治的地位を表す称号) で編成しました。 これを 氏姓制度 と言います。
| 姓 | 内容 |
|---|
| 臣 | 有力豪族、 葛城・平群・蘇我など |
| 連 | ヤマトに仕える職能豪族、 大伴・物部など |
| 君 | 地方の有力豪族 |
| 直 | 国造など |
| 首 | 渡来人系など |
ヤマト王権の政治の中心は 大臣 (臣から) と 大連 (連から) で、 蘇我氏と物部氏の対立が 6 世紀後半の政治の焦点になります。
渡来人と文化伝来
古墳時代には、 朝鮮半島から多くの 渡来人 が来て、 技術と文化を伝えました。
| 伝来 | 時期 | 内容 |
|---|
| 漢字 | 5 世紀ごろ | 王仁が 「論語」 「千字文」 を伝える (伝承) |
| 儒教 | 6 世紀 | 百済から |
| 仏教 | 538 年または 552 年 | 百済聖明王から (公伝) |
| 須恵器 | 5 世紀 | 朝鮮半島式の硬い土器 |
諸説注意: 仏教公伝の年は 「日本書紀」 の 552 年 説と 「上宮聖徳法王帝説」 の 538 年 説があり、 高校では 538 年 説が有力とされますが、 両方を知っておく必要があります。
倭の五王
5 世紀に 「宋書倭国伝」 に登場する 倭の五王 (讃・珍・済・興・武) は、 中国南朝に朝貢して称号を求めました。 特に武 (= 雄略天皇とされる) が 478 年に宋順帝に送った上表文が知られています。
大事: 稲荷山古墳 (埼玉) 出土の 鉄剣 に 「獲加多支鹵大王」 (= 雄略天皇) の名が金象嵌されており、 5 世紀後半にヤマト王権の支配が 関東 まで及んでいたことを示す 一級資料 です。
2. 飛鳥時代 — 聖徳太子と推古朝
蘇我氏と物部氏の対立
6 世紀後半、 渡来人と結びついた 蘇我氏 (仏教受容派) と、 古来の神祇を重視する 物部氏 (反対派) が対立しました。
- 587 年: 蘇我馬子 が物部守屋を滅ぼし、 政権を掌握
- 592 年: 蘇我馬子が崇峻天皇を暗殺、 推古天皇 (女帝) を擁立
聖徳太子 (厩戸王) の政治
推古天皇 の摂政として、 聖徳太子 (厩戸王、 うまやどのおう、 574-622) が蘇我馬子と協力して政治改革を進めました。
| 改革 | 年 | 内容 |
|---|
| 冠位十二階 | 603 年 | 家柄ではなく個人の才能で冠位を与える |
| 十七条憲法 | 604 年 | 役人心得、 「和を以て貴しとなす」 |
| 遣隋使 | 607 年 | 小野妹子 を隋に派遣、 煬帝への国書 |
諸説注意: 聖徳太子の実在と業績には学説上議論があります。 「厩戸王 (うまやどのおう) は実在したが、 聖徳太子としての像は後世、 特に奈良時代に整理された」 とする説があります。 高校では 「厩戸王 = 聖徳太子」 として学びつつ、 諸説があることを知る のが望ましいです。 2017 年学習指導要領改訂で一時 「厩戸王 (聖徳太子)」 表記が提案され、 議論を呼びました。
遣隋使と国書
607 年、 小野妹子が隋煬帝に持参した国書には 「日出ずる処の天子、 書を日没する処の天子に致す」 とあり、 煬帝が不機嫌になったと伝えられます。 これは倭が隋と 対等外交 を求めた表れです。
大事: 遣隋使は 冊封体制からの離脱 を意味します。 倭はもはや中国皇帝の 「冊封」 を受けず、 対等な立場で文化摂取を行う姿勢を示しました。
飛鳥文化
聖徳太子と蘇我氏の時期に開花した 飛鳥文化 は、 仏教を中心とし、 百済・高句麗や西アジア (シルクロード経由) の影響を受けました。
- 法隆寺 (607 年創建、 現西院伽藍は 7 世紀後半再建) — 世界最古の木造建築、 1993 年ユネスコ世界遺産登録
- 飛鳥寺 (596 年創建) — 蘇我馬子発願
- 法隆寺釈迦三尊像 (鞍作鳥作)
- 広隆寺弥勒菩薩半跏思惟像 (国宝)
- 玉虫厨子
3. 大化の改新
645 年 — 乙巳の変
645 年、 中大兄皇子 (後の天智天皇) と 中臣鎌足 (後の藤原鎌足) が、 蘇我入鹿を飛鳥宮殿 (板蓋宮) で暗殺しました。 これを 乙巳の変 (いっしのへん) と呼び、 蘇我本宗家が滅びます。 翌皇極天皇が退位し、 孝徳天皇が即位して、 年号を 大化 と定めました (日本最初の年号)。
改新の詔 (646 年)
646 年、 孝徳天皇は 「改新の詔」 を出し、 4 つの原則を示しました。
| 原則 | 内容 |
|---|
| ① 公地公民 | 豪族の私地私民を廃し、 すべてを国家 (= 天皇) のものとする |
| ② 班田収授 | 6 歳以上の公民に口分田を班給する |
| ③ 戸籍・計帳 | 公民管理の基礎 |
| ④ 新税制 | 租・庸・調の制 |
諸説注意: 「日本書紀」 が伝える改新の詔の 文章そのもの は、 後に大宝律令 (701 年) の影響で 潤色された 部分があるとされます。 つまり 「645-646 年に 改革の方向が定まった」 ことは事実でも、 「改新の詔がそのままの文で 645-646 年に出された」 かは諸説あります。
大化の改新の評価
戦後歴史学では 「大化の改新 = 一気に律令国家へ」 という従来の像が修正され、 「645 年から 701 年大宝律令までの半世紀余りをかけた漸進改革」 と見られるようになっています。
- 「改新の詔」 がすぐに全国で実施されたわけではない
- 公地公民の実現は壬申の乱後の 天武天皇 期以降
- 完成は 大宝律令 (701 年) と 養老律令 (757 年施行)
4. 白村江の戦いと天智朝
白村江の戦い (663 年)
7 世紀中ごろ、 朝鮮半島では 新羅 が 唐 と結んで半島統一を進めました。 百済が 660 年に滅亡し、 百済復興を助けるため倭 (= 斉明天皇・中大兄皇子) が大軍を派遣しましたが、 663 年朝鮮半島西岸の 白村江 (「はくすきのえ」、 「はくそんこう」 とも) で唐・新羅連合軍に 大敗 しました。
白村江敗戦の影響
白村江敗戦は、 日本の国家体制再編を急がせました。
- 防衛体制整備: 北部九州に 水城 (太宰府) と山城、 壱岐・対馬に防人と烽を設置
- 都の移転: 飛鳥から 近江大津宮 へ (667 年)
- 庚午年籍: 670 年、 日本最初の全国戸籍
- 668 年、 中大兄皇子が即位して 天智天皇 に
天智天皇と近江令
天智天皇 (在位 668-672) は、 白村江の教訓から国家体制を整えました。 「近江令」 が編纂されたと伝えられますが、 現存せず、 諸説あります。
5. 壬申の乱と天武朝
壬申の乱 (672 年)
天智天皇死後、 皇位継承をめぐって、 天智天皇の弟の 大海人皇子 (後の天武天皇) と、 天智天皇の子の 大友皇子 が戦い、 大海人皇子が勝利しました。 これが 壬申の乱 です。 古代最大の内戦とされます。
天武天皇の改革
壬申の乱に勝った大海人皇子が 天武天皇 (在位 673-686) として即位し、 強力な改革を進めました。
| 改革 | 内容 |
|---|
| 皇親政治 | 豪族を抑え皇族中心の政治 |
| 八色の姓 (684 年) | 氏姓制度を再編 |
| 飛鳥浄御原令 | 編纂着手 (689 年施行) |
| 国史編纂 着手 | 後の 「古事記」 「日本書紀」 へ |
| 富本銭 | 日本最古の流通貨幣とされる |
持統天皇と藤原京
天武天皇の皇后である持統天皇 (在位 690-697) が、 694 年に 藤原京 に遷都しました。 藤原京は日本最初の 条坊制 に基づく本格都城で、 唐の長安を模しました。
6. 律令国家の完成と白鳳文化
大宝律令 (701 年)
701 年、 文武天皇 の時代に 大宝律令 が完成しました。 刑部親王・藤原不比等 らが編纂し、 これにより 律令国家 が形式的に完成しました。
| 項目 | 内容 |
|---|
| 律 | 刑罰法 |
| 令 | 行政組織・民事法・税制 |
官制 — 二官八省
律令による中央官制は 二官八省 です。
- 二官: 神祇官・太政官 ([だじょうかん])
- 八省: 中務省・式部省・治部省・民部省・兵部省・刑部省・大蔵省・宮内省
白鳳文化
天武・持統期の文化を 白鳳文化 と呼び、 初唐文化の影響を強く受けました。
- 薬師寺 東塔・薬師三尊像
- 法隆寺 金堂壁画 (1949 年焼損が文化財保護法制定の契機)
- 高松塚古墳 壁画 (飛鳥後期、 極彩色人物像)
- 万葉集 初期の歌 (額田王・柿本人麻呂) — 漢字を日本語表記に用いた万葉仮名
7. ふりかえり
この章で学んだことを確認しましょう。
- [ ]古墳時代 (3-7 世紀) の前方後円墳・大仙古墳・ヤマト王権・氏姓制度を説明できる
- [ ]倭の五王・稲荷山古墳鉄剣から 5 世紀ヤマトの広域支配を言える
- [ ]聖徳太子 (厩戸王) の冠位十二階 (603)・十七条憲法 (604)・遣隋使 (607) を説明でき、 実在諸説があることを知っている
- [ ]飛鳥文化の法隆寺・飛鳥寺・釈迦三尊像を知っている
- [ ]乙巳の変 (645) と大化の改新・公地公民・班田収授を説明できる
- [ ]改新の詔が 潤色された 可能性があるなど諸説を知っている
- [ ]白村江敗戦 (663)・水城・防人・大津宮遷都を説明できる
- [ ]壬申の乱 (672) と天武天皇の皇親政治・八色の姓・富本銭を知っている
- [ ]藤原京 (694) と大宝律令 (701) で律令国家が完成したこと
- [ ]白鳳文化の薬師寺東塔・高松塚壁画・万葉集を知っている
この章の安全配慮 (寺社マナーと古墳立入禁止)
古墳・飛鳥時代の学習では、 つぎのことを必ず守りましょう。
- 古墳 (特に陵墓) は宮内庁が管理しており、 立入禁止の場所がほとんど。 ロープや柵の内側に絶対に入らない (文化財保護法違反 で罰則あり)
- 寺社見学 では、 本堂や仏像の前で騒がない、 フラッシュ撮影禁止を守る、 参道の中央 (神様の通り道) を避けて歩くなどのマナーを守る
- 法隆寺 金堂壁画は 1949 年に焼損し、 これが文化財保護法 (1950) 制定の契機となったことを忘れず、 文化財を次世代に残す責任を持つ
- 聖徳太子実在論争や邪馬台国論争など 歴史論争 に関しては、 1 つの説を絶対視せず、 一次史料と考古資料 に基づく実証を尊重する
- 古代史に関する書籍やウェブサイトの中には、 「皇国史観」 や 超古代文明 論など非実証的なものもある。 著者や出版元を確認し、 大学・研究機関や国の公式資料を基本とする
次の章: 第 4 章では、 奈良時代 と 平安時代 を学びます。 平城京・聖武天皇・大仏・天平文化から、 平安京・摂関政治・国風文化・院政・武士の登場まで、 律令国家の 発展と変容 の 4 世紀を追います。
まとめ — 古墳・飛鳥時代を 3 行で
- 古墳時代にヤマト王権が成立し、 大仙古墳など巨大な古墳が各地に築かれ王権の力を示した
- 飛鳥時代には蘇我氏と物部氏の対立のあと、 聖徳太子の政治と大化の改新 (645) で中央集権化が進んだ
- 白村江の敗戦と壬申の乱を経て天武天皇が権力を強化、 大宝律令 (701) で律令国家が完成する