メインコンテンツへスキップ
‹ 教材一覧に戻る
日本史探究

古墳こふん・飛鳥あすか時代じだい (古代こだい国家こっかの成立せいりつ)

最終確認日:

この章しょうで学まなぶこと

3 世紀せいき後半こうはん、 奈良なら盆地ぼんちを中心ちゅうしんに ヤマトやまと王権おうけん が形成けいせいされ、 巨きょ大だいな 古墳こふん が各地かくちに築きずかれました。 やがて 6 世紀せいき末まつに聖徳太子しょうとくたいし (厩うまや戸と王おう) が政治せいじ改革かいかくを始はじめ、 大化の改新たいかのかいしんを経へて、 7 世紀せいき末まつに律令国家りつりょうこっかの基き礎そが出来上できあがります。

中学ちゅうがくで学まなんだ 「聖徳太子しょうとくたいし」 「大化の改新たいかのかいしん」 を、 高校こうこうでは ヤマトやまと王権おうけん形成けいせい過程かてい、 東アジアひがしあじあ国際こくさい関係かんけい、 そして 諸説しょせつ を含ふくめて深ふかく学まなびます。

  • 古墳時代こふんじだい (3-7 世紀せいき) — 前方後円墳ぜんぽうこうえんふん・ヤマト王権やまとおうけん・氏姓制度しせいせいど
  • 飛鳥時代あすかじだい (6 世紀せいき末まつ -710 年ねん) — 聖徳太子しょうとくたいし・冠位十二階かんいじゅうにかい・十七条憲法じゅうしちじょうけんぽう・遣隋使けんずいし
  • 大化の改新たいかのかいしん (645 年ねん) と公地公民こうちこうみん
  • 白村江はくすきのえの戦たたかい (663 年ねん) と国家こっか再編さいへん
  • 壬申の乱じんしんのらん (672 年ねん) と天武天皇てんむてんのうの律令りつりょう整備せいび
  • 飛鳥あすか文化ぶんか と 白鳳文化はくほうぶんか

大事だいじ: この時代じだいは 文字もじ史料しりょうが増ふえ始はじめる 時期じきです。 「古事記こじき」 「日本書紀にほんしょき」 「風土記ふどき」 が編へん纂さんされ、 木簡もっかんや金石文かねいしぶんも出土しゅつどします。 また中国ちゅうごく史書ししょ (「宋書そうしょ」 「隋書ずいしょ」) が 倭やまと の動向どうこうを伝つたえます。 つまり 考古資料こうこしりょうと文字もじ史料しりょうの両方りょうほう から立体りったい的てきに描えがける時代じだいです。

1. 古墳こふん時代じだいとヤマト王権おうけん

前方後円墳の空撮
大仙古墳だいせんこふん (大阪おおさか府ふ堺さかい市し、 5 世紀せいき) — 全長ぜんちょう約やく 486 m の前方後円墳ぜんぽうこうえんふん。 仁徳天皇陵にんとくてんのうりょうと伝つたえられるが諸説しょせつあり。
現存する世界最古の木造建築
法隆寺ほうりゅうじ (奈良なら県けん斑鳩いかるが町まち、 607 年ねん創建そうけんと伝つたわる) — 現存げんそんする世界せかい最古さいこの木造もくぞう建築けんちく。 聖徳太子しょうとくたいしが建立こんりゅうと伝つたわるが諸説しょせつあり。

古墳こふんの出現しゅつげん

3 世紀せいき後半こうはん、 奈良なら盆地ぼんちを中心ちゅうしんに 前方後円墳ぜんぽうこうえんふん と呼よばれる巨きょ大だいな墳墓ふんぼが築きずかれ始はじめます。 このころから 7 世紀せいき末まつまでを 古墳時代こふんじだい と呼よびます。

期き大だい体たいの年代ねんだい主おもな古墳こふん
前期ぜんき3 世紀せいき後半こうはん - 4 世紀せいき箸墓古墳はしはかこふん (奈良なら・纏向まきむく)
中期ちゅうき5 世紀せいき大仙古墳だいせんこふん (大阪おおさか・仁徳天皇にんとくてんのう陵りょう古墳こふん)
後期こうき6 世紀せいき - 7 世紀せいき群集墳ぐんしゅうふん・横穴式石室よこあなしきいしむろ

大仙古墳だいせんこふんと 「世界せかい三さん大だい墳墓ふんぼ」

大阪おおさか府ふ堺さかい市しの 大仙古墳だいせんこふん (仁徳天皇にんとくてんのう陵りょう古墳こふんとされる) は、 全長ぜんちょう約やく 486 メートルの日本にほん最大さいだいの前方後円墳ぜんぽうこうえんふんで、 エジプトのクフ王くふおうピラミッドぴらみっど、 中国ちゅうごくの始皇帝しこうてい陵りょうと並ならんで 「世界せかい三さん大だい墳墓ふんぼ」 と呼よばれます (面積めんせき比較ひかくで)。 2019 年ねんに 百舌鳥もず・古市ふるいち古墳こふん群ぐん としてユネスコゆねすこ世界遺産せかいいさんに登録とうろくされました。

諸説しょせつ注意ちゅうい: 「仁徳天皇にんとくてんのう陵りょう」 とされていますが、 実際じっさいに仁徳天皇にんとくてんのうが埋葬まいそうされているかは確証かくしょうがない ため、 考古学こうこがくでは 大仙古墳だいせんこふん または 大山古墳おおやまこふん と呼よぶことが一般いっぱん的てきです。 宮内庁くないちょうは陵りょう墓ぼとして管理かんりしており、 発掘はっくつ調査ちょうさが厳きびしく制限せいげんされています。

ヤマトやまと王権おうけんの形成けいせい

古墳こふんの分布ぶんぷと形式けいしきから、 奈良なら盆地ぼんちを中心ちゅうしんとする ヤマトやまと王権おうけん が列島れっとう各地かくちの豪族ごうぞくを統合とうごうしていったことが分わかります。

  • ヤマトやまと王権おうけんの首長しゅちょう = 大王おおきみ (おおきみ、 後ごの天皇てんのうの原型げんけい)
  • 各地かくちの豪族ごうぞくがヤマトやまとと同おなじ形式けいしきの古墳こふんを作つくる = 政治せいじ統合とうごうのしるし
  • ヤマトやまとから豪族ごうぞくに 銅鏡どうきょう や 玉たま が配布はいふされた (副葬品ふくそうひんから分わかる)

氏姓制度しせいせいど

ヤマトやまと王権おうけんは、 豪族ごうぞくを 氏うじ (血縁けつえん集団しゅうだん) と 姓かばね (政治せいじ的てき地位ちいを表あらわす称号しょうごう) で編成へんせいしました。 これを 氏姓制度しせいせいど と言いいます。

姓かばね内容ないよう
臣おみ有力ゆうりょく豪族ごうぞく、 葛城かつらぎ・平群へぐり・蘇我そがなど
連むらじヤマトやまとに仕つかえる職能しょくのう豪族ごうぞく、 大伴おおとも・物部ものべなど
君きみ地方ちほうの有力ゆうりょく豪族ごうぞく
直あたい国造くにのみやつこなど
首おびと渡来人とらいじん系けいなど

ヤマトやまと王権おうけんの政治せいじの中心ちゅうしんは 大臣おおおみ (臣おみから) と 大連おおむらじ (連むらじから) で、 蘇我氏そがしと物部氏もののべしの対立たいりつが 6 世紀せいき後半こうはんの政治せいじの焦点しょうてんになります。

渡来人とらいじんと文化ぶんか伝来でんらい

古墳時代こふんじだいには、 朝鮮半島ちょうせんはんとうから多おおくの 渡来人とらいじん が来きて、 技術ぎじゅつと文化ぶんかを伝つたえました。

伝来でんらい時期じき内容ないよう
漢字かんじ5 世紀せいきごろ王仁わにが 「論語ろんご」 「千字文せんじぶん」 を伝つたえる (伝でん承しょう)
儒教じゅきょう6 世紀せいき百済くだらから
仏教ぶっきょう538 年ねんまたは 552 年ねん百済くだら聖明王せいめいおうから (公伝こうでん)
須恵器すえき5 世紀せいき朝鮮半島ちょうせんはんとう式しきの硬かたい土器どき

諸説しょせつ注意ちゅうい: 仏教公伝ぶっきょうこうでんの年ねんは 「日本書紀にほんしょき」 の 552 年ねん 説せつと 「上宮聖徳法王帝説じょうぐうしょうとくほうおうていせつ」 の 538 年ねん 説せつがあり、 高校こうこうでは 538 年ねん 説せつが有力ゆうりょくとされますが、 両方りょうほうを知しっておく必要ひつようがあります。

倭の五王わのごおう

5 世紀せいきに 「宋書そうしょ倭国伝わのくにでん」 に登場とうじょうする 倭の五王わのごおう (讃さん・珍ちん・済せい・興こう・武ぶ) は、 中国ちゅうごく南朝なんちょうに朝貢ちょうこうして称号しょうごうを求もとめました。 特とくに武ぶ (= 雄略天皇ゆうりゃくてんのうとされる) が 478 年ねんに宋そう順帝じゅんていに送おくった上表じょうひょう文ぶんが知しられています。

大事だいじ: 稲荷山古墳いなりやまこふん (埼玉さいたま) 出土しゅつどの 鉄剣てつけん に 「獲加多支鹵わかたける大王おおきみ」 (= 雄略天皇ゆうりゃくてんのう) の名なが金象嵌きんぞうがんされており、 5 世紀せいき後半こうはんにヤマトやまと王権おうけんの支配しはいが 関東かんとう まで及およんでいたことを示しめす 一級いちきゅう資料しりょう です。

2. 飛鳥あすか時代じだい — 聖徳太子しょうとくたいしと推古こ朝あさ

蘇我氏そがしと物部氏もののべしの対立たいりつ

6 世紀せいき後半こうはん、 渡来人とらいじんと結むすびついた 蘇我氏そがし (仏教ぶっきょう受容じゅよう派は) と、 古来こらいの神祇じんぎを重ちょう視する 物部氏もののべし (反対はんたい派は) が対立たいりつしました。

  • 587 年ねん: 蘇我馬子そがのうまこ が物部守屋もののべのもりやを滅ほろぼし、 政権せいけんを掌握しょうあく
  • 592 年ねん: 蘇我馬子そがのうまこが崇峻天皇すしゅんてんのうを暗殺あんさつ、 推古天皇すいこてんのう (女帝にょてい) を擁立ようりつ

聖徳太子しょうとくたいし (厩うまや戸と王おう) の政治せいじ

推古天皇すいこてんのう の摂政せっしょうとして、 聖徳太子しょうとくたいし (厩うまや戸と王おう、 うまやどのおう、 574-622) が蘇我馬子そがのうまこと協力きょうりょくして政治せいじ改革かいかくを進すすめました。

改革かいかく年ねん内容ないよう
冠位十二階かんいじゅうにかい603 年ねん家柄いえがらではなく個人こじんの才能さいのうで冠位かんむりいを与あたえる
十七条憲法じゅうしちじょうけんぽう604 年ねん役人やくにん心得こころえ、 「和わを以もって貴とうとしとなす」
遣隋使けんずいし607 年ねん小野妹子おののいもこ を隋ずいに派遣はけん、 煬帝ようだいへの国書こくしょ

諸説しょせつ注意ちゅうい: 聖徳太子しょうとくたいしの実在じつざいと業績ぎょうせきには学説がくせつ上うえ議論ぎろんがあります。 「厩うまや戸と王おう (うまやどのおう) は実在じつざいしたが、 聖徳太子しょうとくたいしとしての像ぞうは後こう世せい、 特とくに奈良なら時代じだいに整理せいりされた」 とする説せつがあります。 高校こうこうでは 「厩うまや戸と王おう = 聖徳太子しょうとくたいし」 として学まなびつつ、 諸説しょせつがあることを知しる のが望のぞましいです。 2017 年ねん学習がくしゅう指導要領しどうようりょう改訂かいていで一時いちじ 「厩うまや戸と王おう (聖徳太子しょうとくたいし)」 表記ひょうきが提てい案あんされ、 議論ぎろんを呼よびました。

遣隋使けんずいしと国書こくしょ

607 年ねん、 小野妹子おののいもこが隋ずい煬帝ようだいに持参じさんした国書こくしょには 「日出ずる処の天子ひいずるところのてんし、 書しょを日没する処の天子ひぼっするところのてんしに致いたす」 とあり、 煬帝ようだいが不ふ機嫌きげんになったと伝つたえられます。 これは倭やまとが隋ずいと 対等たいとう外交がいこう を求もとめた表あらわれです。

大事だいじ: 遣隋使けんずいしは 冊封さつふう体制たいせいからの離脱りだつ を意味いみします。 倭やまとはもはや中国ちゅうごく皇帝こうていの 「冊封さつふう」 を受うけず、 対等たいとうな立場たちばで文化ぶんか摂取せっしゅを行おこなう姿勢しせいを示しめしました。

飛鳥あすか文化ぶんか

聖徳太子しょうとくたいしと蘇我そが氏しの時期じきに開花かいかした 飛鳥あすか文化ぶんか は、 仏教ぶっきょうを中心ちゅうしんとし、 百済くだら・高句麗こうくりや西アジアにしアジア (シルクロード経由けいゆ) の影響えいきょうを受うけました。

  • 法隆寺ほうりゅうじ (607 年ねん創そう建けん、 現げん西院さいいん伽藍がらんは 7 世紀せいき後半こうはん再建さいけん) — 世界せかい最古さいこの木造もくぞう建築けんちく、 1993 年ユネスコゆねすこ世界遺産せかいいさん登録とうろく
  • 飛鳥寺あすかでら (596 年ねん創そう建けん) — 蘇我馬子そがのうまこ発願ほつがん
  • 法隆寺ほうりゅうじ釈迦三尊像しゃかさんぞんぞう (鞍作鳥くらつくりのとり作)
  • 広隆寺こうりゅうじ弥勒菩薩みろくぼさつ半跏思惟像はんかしいぞう (国宝こくほう)
  • 玉虫厨子たまむしのずし

3. 大化たいかの改新かいしん

645 年ねん — 乙巳いっしの変へん

645 年ねん、 中大兄皇子なかのおおえのおうじ (後ごの天智天皇てんじてんのう) と 中臣鎌足なかとみのかまたり (後ごの藤原鎌足ふじわらのかまたり) が、 蘇我入鹿そがのいるかを飛鳥あすか宮殿きゅうでん (板蓋宮いたぶきのみや) で暗殺あんさつしました。 これを 乙巳いっしの変へん (いっしのへん) と呼よび、 蘇我そが本宗ほんそう家いえが滅ほろびます。 翌皇極天皇こうぎょくてんのうが退位たいいし、 孝徳天皇こうとくてんのうが即位そくいして、 年号ねんごうを 大化たいか と定さだめました (日本にほん最初さいしょの年号ねんごう)。

改新の詔みことのり (646 年ねん)

646 年ねん、 孝徳天皇こうとくてんのうは 「改新の詔みことのり」 を出だし、 4 つの原則げんそくを示しめしました。

原則げんそく内容ないよう
① 公地公民こうちこうみん豪族ごうぞくの私地しち私民しみんを廃はいし、 すべてを国家こっか (= 天皇てんのう) のものとする
② 班田収授はんでんしゅうじゅ6 歳とし以上いじょうの公民こうみんに口分田くぶんでんを班はん給きゅうする
③ 戸籍こせき・計帳けいちょう公民こうみん管理かんりの基礎きそ
④ 新税制しんぜいせい租そ・庸よう・調ちょうの制せい

諸説しょせつ注意ちゅうい: 「日本書紀にほんしょき」 が伝つたえる改新の詔みことのりの 文章ぶんしょうそのもの は、 後ごに大宝律令たいほうりつりょう (701 年ねん) の影響えいきょうで 潤色じゅんしょくされた 部分ぶぶんがあるとされます。 つまり 「645-646 年ねんに 改革かいかくの方向ほうこうが定さだまった」 ことは事実じじつでも、 「改新の詔みことのりがそのままの文ぶんで 645-646 年ねんに出だされた」 かは諸説しょせつあります。

大化の改新たいかのかいしんの評価ひょうか

戦後せんご歴史学れきしがくでは 「大化の改新たいかのかいしん = 一気いっきに律令国家りつりょうこっかへ」 という従来じゅうらいの像ぞうが修正しゅうせいされ、 「645 年ねんから 701 年大宝律令たいほうりつりょうまでの半世紀はんせいき余あまりをかけた漸進ぜんしん改革かいかく」 と見みられるようになっています。

  • 「改新の詔みことのり」 がすぐに全国ぜんこくで実施じっしされたわけではない
  • 公地公民こうちこうみんの実現じつげんは壬申の乱じんしんのらん後の 天武天皇てんむてんのう 期き以い降こう
  • 完成かんせいは 大宝律令たいほうりつりょう (701 年ねん) と 養老律令ようろうりつりょう (757 年ねん施行しこう)

4. 白村はくそん江こうの戦たたかいと天智てんじ朝ちょう

白村江はくすきのえの戦たたかい (663 年ねん)

7 世紀せいき中なかごろ、 朝鮮半島ちょうせんはんとうでは 新羅しんら が 唐とう と結むすんで半島はんとう統一とういつを進すすめました。 百済くだらが 660 年ねんに滅亡めつぼうし、 百済くだら復興ふっこうを助たすけるため倭やまと (= 斉明天皇さいめいてんのう・中大兄皇子なかのおおえのおうじ) が大軍たいぐんを派遣はけんしましたが、 663 年ねん朝鮮半島ちょうせんはんとう西岸せいがんの 白村江はくすきのえ (「はくすきのえ」、 「はくそんこう」 とも) で唐とう・新羅しんら連合れんごう軍ぐんに 大敗たいはい しました。

白村江はくすきのえ敗戦はいせんの影響えいきょう

白村江はくすきのえ敗戦はいせんは、 日本にほんの国家こっか体制たいせい再編さいへんを急いそがせました。

  • 防衛ぼうえい体制たいせい整備せいび: 北部九州ほくぶきゅうしゅうに 水城みずき (太宰府だざいふ) と山城やましろ、 壱岐いき・対馬つしまに防人さきもりと烽とぶひを設せっ置ち
  • 都との移転いてん: 飛鳥あすかから 近江おうみ大津宮おおつみや へ (667 年ねん)
  • 庚午年籍こうごねんじゃく: 670 年ねん、 日本にほん最初さいしょの全国ぜんこく戸籍こせき
  • 668 年ねん、 中大兄皇子なかのおおえのおうじが即位そくいして 天智天皇てんじてんのう に

天智天皇てんじてんのうと近江おうみ令りょう

天智天皇てんじてんのう (在ざい位い 668-672) は、 白村江はくすきのえの教訓きょうくんから国家こっか体制たいせいを整ととのえました。 「近江おうみ令りょう」 が編纂へんさんされたと伝つたえられますが、 現存げんそんせず、 諸説しょせつあります。

5. 壬みずのえ申さるの乱らんと天武てんむ朝ちょう

壬申の乱じんしんのらん (672 年ねん)

天智天皇てんじてんのう死し後ご、 皇位こうい継承けいしょうをめぐって、 天智天皇てんじてんのうの弟おとうとの 大海人皇子おおあまのおうじ (後ごの天武天皇てんむてんのう) と、 天智天皇てんじてんのうの子この 大友皇子おおとものみこ が戦たたかい、 大海人皇子おおあまのおうじが勝利しょうりしました。 これが 壬申の乱じんしんのらん です。 古代こだい最大さいだいの内戦ないせんとされます。

天武天皇てんむてんのうの改革かいかく

壬申の乱じんしんのらんに勝かった大海人皇子おおあまのおうじが 天武天皇てんむてんのう (在ざい位い 673-686) として即位そくいし、 強力きょうりょくな改革かいかくを進すすめました。

改革かいかく内容ないよう
皇親政治こうしんせいじ豪族ごうぞくを抑おさえ皇族こうぞく中心ちゅうしんの政治せいじ
八色の姓やくさのかばね (684 年ねん)氏姓制度しせいせいどを再編さいへん
飛鳥浄御原令あすかきよみはらりょう編纂へんさん着手ちゃくしゅ (689 年ねん施行しこう)
国史こくし編纂へんさん 着手ちゃくしゅ後ごの 「古事記こじき」 「日本書紀にほんしょき」 へ
富本銭ふほんせん日本にほん最古さいこの流通りゅうつう貨幣かへいとされる

持統天皇じとうてんのうと藤原京ふじわらきょう

天武天皇てんむてんのうの皇后こうごうである持統天皇じとうてんのう (在ざい位い 690-697) が、 694 年ねんに 藤原京ふじわらきょう に遷都せんとしました。 藤原京ふじわらきょうは日本にほん最初さいしょの 条坊じょうぼう制せい に基もとづく本格ほんかく都城みやこのじょうで、 唐とうの長安ちょうあんを模もしました。

6. 律令りつりょう国家こっかの完成かんせいと白鳳はくほう文化ぶんか

大宝律令たいほうりつりょう (701 年ねん)

701 年ねん、 文武天皇ぶんぶてんのう の時代じだいに 大宝律令たいほうりつりょう が完かん成せいしました。 刑部親王おさかべしんのう・藤原不比等ふじわらのふひと らが編纂へんさんし、 これにより 律令国家りつりょうこっか が形けい式しき的てきに完かん成せいしました。

項目こうもく内容ないよう
律りつ刑罰けいばつ法ほう
令りょう行政ぎょうせい組織そしき・民事みんじ法ほう・税ぜい制せい

官制かんせい — 二に官かん八はち省しょう

律令りつりょうによる中央ちゅうおう官制かんせいは 二官八省にかんはちしょう です。

  • 二官にかん: 神祇官じんぎかん・太政官だじょうかん ([だじょうかん])
  • 八省はちしょう: 中務省なかつかさしょう・式部省しきぶしょう・治部省じぶしょう・民部省みんぶしょう・兵部省ひょうぶしょう・刑部省おさかべしょう・大蔵省おおくらしょう・宮内省くないしょう

白鳳文化はくほうぶんか

天武てんむ・持統じとう期きの文化ぶんかを 白鳳文化はくほうぶんか と呼よび、 初唐はつとう文化ぶんかの影響えいきょうを強つよく受うけました。

  • 薬師寺やくしじ 東塔ひがしとう・薬師三尊像くすしさんそんぞう
  • 法隆寺ほうりゅうじ 金堂こんどう壁画へきが (1949 年ねん焼損しょうそんが文化財保護法ぶんかざいほごほう制定せいていの契機けいき)
  • 高松塚古墳たかまつつかこふん 壁画へきが (飛鳥あすか後期こうき、 極彩色ごくさいしょく人物じんぶつ像ぞう)
  • 万葉集まんようしゅう 初期しょきの歌うた (額田王ぬかたのおおきみ・柿本人麻呂かきのもとのひとまろ) — 漢字かんじを日本語にほんご表記ひょうきに用もちいた万葉仮名まんようがな

7. ふりかえり

この章しょうで学まなんだことを確かく認にんしましょう。

  • [ ]古墳時代こふんじだい (3-7 世紀せいき) の前方後円墳ぜんぽうこうえんふん・大仙古墳だいせんこふん・ヤマト王権やまとおうけん・氏姓制度しせいせいどを説せつ明めいできる
  • [ ]倭の五王わのごおう・稲荷山古墳いなりやまこふん鉄剣てつけんから 5 世紀せいきヤマトやまとの広域こういき支配しはいを言いえる
  • [ ]聖徳太子しょうとくたいし (厩うまや戸と王おう) の冠位十二階かんいじゅうにかい (603)・十七条憲法じゅうしちじょうけんぽう (604)・遣隋使けんずいし (607) を説せつ明めいでき、 実在じつざい諸説しょせつがあることを知しっている
  • [ ]飛鳥あすか文化ぶんかの法隆寺ほうりゅうじ・飛鳥寺あすかでら・釈迦三尊像しゃかさんぞんぞうを知しっている
  • [ ]乙巳の変いっしのへん (645) と大化の改新たいかのかいしん・公地公民こうちこうみん・班田収授はんでんしゅうじゅを説せつ明めいできる
  • [ ]改新の詔みことのりが 潤色じゅんしょくされた 可能かのう性せいがあるなど諸説しょせつを知しっている
  • [ ]白村江はくすきのえ敗戦はいせん (663)・水城みずき・防人さきもり・大津宮おおつみや遷都せんとを説せつ明めいできる
  • [ ]壬申の乱じんしんのらん (672) と天武天皇てんむてんのうの皇親政治こうしんせいじ・八色の姓やくさのかばね・富本銭ふほんせんを知しっている
  • [ ]藤原京ふじわらきょう (694) と大宝律令たいほうりつりょう (701) で律令国家りつりょうこっかが完かん成せいしたこと
  • [ ]白鳳文化はくほうぶんかの薬師寺やくしじ東塔ひがしとう・高松塚たかまつつか壁画へきが・万葉集まんようしゅうを知しっている

この章しょうの安全あんぜん配慮はいりょ (寺社じしゃマナーと古墳こふん立入たていり禁止きんし)

古墳こふん・飛鳥時代あすかじだいの学習がくしゅうでは、 つぎのことを必かならず守まもりましょう。

  • 古墳こふん (特とくに陵りょう墓ぼ) は宮内庁くないちょうが管理かんりしており、 立入たていり禁止きんしの場所ばしょがほとんど。 ロープや柵しがらみの内側うちがわに絶対ぜったいに入はいらない (文化財保護法ぶんかざいほごほう違反いはん で罰則ばっそくあり)
  • 寺社じしゃ見学けんがく では、 本堂ほんどうや仏像ぶつぞうの前まえで騒さわがない、 フラッシュ撮影さつえい禁止きんしを守まもる、 参道さんどうの中央ちゅうおう (神様かみさまの通とおり道みち) を避さけて歩あるくなどのマナーを守まもる
  • 法隆寺ほうりゅうじ 金堂こんどう壁画へきがは 1949 年ねんに焼損しょうそんし、 これが文化財保護法ぶんかざいほごほう (1950) 制定せいていの契機けいきとなったことを忘わすれず、 文化財ぶんかざいを次世代じせだいに残のこす責任せきにんを持もつ
  • 聖徳太子しょうとくたいし実在じつざい論争ろんそうや邪馬台国やまたいこく論争ろんそうなど 歴史れきし論争ろんそう に関かんしては、 1 つの説せつを絶対ぜったい視しせず、 一次史料いちじしりょうと考古資料こうこしりょう に基もとづく実証じっしょうを尊重そんちょうする
  • 古代こだい史ふみに関かんする書籍しょせきやウェブサイトの中なかには、 「皇国史観こうこくしかん」 や 超古代ちょうこだい文明ぶんめい 論ろんなど非ひ実証じっしょう的なものもある。 著者ちょしゃや出版しゅっぱん元もとを確かく認にんし、 大学だいがく・研究けんきゅう機関きかんや国くにの公式こうしき資料しりょうを基本きほんとする

次じの章しょう: 第だい 4 章しょうでは、 奈良時代ならじだい と 平安時代へいあんじだい を学まなびます。 平城京へいじょうきょう・聖武天皇しょうむてんのう・大仏だいぶつ・天平文化てんぴょうぶんかから、 平安京へいあんきょう・摂関政治せっかんせいじ・国風文化こくふうぶんか・院政いんせい・武士の登場ぶしのとうじょうまで、 律令国家りつりょうこっかの 発展はってんと変容へんよう の 4 世紀せいきを追おいます。

まとめ — 古墳こふん・飛鳥あすか時代じだいを 3 行くだりで

  • 古墳時代こふんじだいにヤマト王権やまとおうけんが成立せいりつし、 大仙古墳だいせんこふんなど巨大きょだいな古墳こふんが各地かくちに築きずかれ王権おうけんの力ちからを示しめした
  • 飛鳥時代あすかじだいには蘇我そが氏しと物部氏もののべしの対立たいりつのあと、 聖徳太子しょうとくたいしの政治せいじと大化の改新たいかのかいしん (645) で中央ちゅうおう集権しゅうけん化かが進すすんだ
  • 白村江はくすきのえの敗戦はいせんと壬申の乱じんしんのらんを経へて天武天皇てんむてんのうが権力けんりょくを強化きょうか、 大宝律令たいほうりつりょう (701) で律令国家りつりょうこっかが完成かんせいする
この教材きょうざいは役やくに立たちましたか?
学がく習しゅうロードマップ(10件けん)
  1. 1日本にほん史し探究たんきゅう入門にゅうもん (歴史れきし的てき思考しこうと史料しりょう)
  2. 2原始時代げんしじだい (旧きゅう石器せっき・縄文じょうもん・弥生やよい)
  3. 3古墳こふん・飛鳥あすか時代じだい (古代こだい国家こっかの成立せいりつ)
  4. 4奈良なら・平安へいあん時代じだい (律令りつりょう国家こっかの発展はってんと変容へんよう)
  5. 5鎌倉かまくら・室町むろまち時代じだい (中世ちゅうせい武家ぶけ政権せいけん)
  6. 6戦国せんごく・安土あづち桃山ももやま時代じだい (中世ちゅうせい末まつから近世きんせいへ)
  7. 7江戸えど時代じだい (近世きんせい社会しゃかいの確立かくりつ)
  8. 8幕末ばくまつ・明治維新めいじいしん (近代きんだい化かの出発しゅっぱつ、 1853-1889)
  9. 9明治めいじ後期こうき・大正たいしょう・昭和しょうわ前期ぜんき (帝国ていこく主義しゅぎと戦争せんそう、 1890-1945)
  10. 10戦後せんご日本にほん (現代げんだい、 1945- )