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日本史探究

鎌倉かまくら・室町むろまち時代じだい (中世ちゅうせい武家ぶけ政権せいけん)

最終確認日:

この章しょうで学まなぶこと

1185 年平氏へいし滅亡めつぼうの後のち、 源頼朝みなもとのよりともが 鎌倉かまくら に幕府ばくふを開ひらいて 武家ぶけ政権せいけん が始はじまります。 ここから 1573 年室町幕府むろまちばくふ滅亡めつぼうまでの約やく 4 世紀せいきが 中世ちゅうせい です。

中学ちゅうがくで学まなんだ 「源頼朝みなもとのよりとも」 「元寇げんこう」 「足利義満あしかがよしみつ」 「応仁の乱おうにんのらん」 を、 高校こうこうでは 公家くげと武家ぶけの二元にげん支配しはい、 東アジアひがしあじあ国際こくさい秩序ちつじょ (宋そう・元げん・明みん)、 荘園しょうえん公領こうりょう制せいから守護しゅご領国りょうごく制せいへ の変容へんようを軸じくに学まなびます。

  • 鎌倉時代かまくらじだい (1185-1333) — 源頼朝みなもとのよりとも・御恩と奉公ごおんとほうこう・執権政治しっけんせいじ・御成敗式目ごせいばいしきもく・元寇げんこう
  • 鎌倉新仏教かまくらしんぶっきょう — 法然ほうねん・親鸞しんらん・日蓮にちれん・道元どうげん・栄西えいさい
  • 南北朝時代なんぼくちょうじだい (1336-1392) と建武の新政けんむのしんせい
  • 室町時代むろまちじだい (1336-1573) — 足利義満あしかがよしみつ・勘合貿易かんごうぼうえき・守護大名しゅごだいみょう
  • 北山きたやま文化ぶんかと東山ひがしやま文化ぶんか — 金閣きんかく・銀閣ぎんかく・能のう・茶の湯ちゃのゆ・水墨画すいぼくが
  • 応仁の乱おうにんのらん (1467-77) と下剋上げこくじょう — 戦国せんごくへ

大事だいじ: 中世ちゅうせいのキー概念がいねんは 「公武こうぶ二元にげん支配しはい」 と 「一所懸命いっしょけんめい」 です。 公家くげ (朝廷ちょうてい・摂関せっかん・院政いんせい) と武家ぶけ (幕府ばくふ) が 併存へいそん し、 武士ぶしは 所領しょりょう を命いのちがけで守まもりました。 この 「一所懸命いっしょけんめい」 が後ごの 「一生懸命いっしょうけんめい」 の語源ごげんとされます。

1. 鎌倉かまくら幕府ばくふの成立せいりつ

源頼朝みなもとのよりともの挙兵きょへいと幕府ばくふ成立せいりつ

平氏へいし政権せいけんに反発はんぱつした源頼朝みなもとのよりとも (1147-1199) は、 1180 年ねんに伊豆いずで 挙兵きょへい し、 鎌倉かまくらを拠点きょてんとしました。

年ねん事件じけん
1180源頼朝みなもとのよりとも挙兵きょへい、 鎌倉かまくら入府にゅうふ、 侍所さむらいどころ 設置せっち
1183寿永じゅえい二年十月じゅうがつ宣旨せんじ — 東国とうごく支配しはい権けん公認こうにん
1184公文所こうぶんしょ (後のちの 政所まんどころ)・問注所もんちゅうじょ 設置せっち
1185壇ノ浦だんのうらで平氏へいし滅亡めつぼう、 守護しゅご・地頭じとう 設置せっち勅許ちょっきょ
1189奥州おうしゅう藤原氏ふじわらし滅亡めつぼう
1192源頼朝みなもとのよりとも 征夷大将軍せいいたいしょうぐん 就任しゅうにん

鎌倉幕府かまくらばくふ成立せいりつ論争ろんそう

鎌倉幕府かまくらばくふ成立せいりつ年ねんをどこに置おくかは 諸説しょせつ あり、 大学だいがく入試にゅうしでも押おさえるべき論点ろんてんです。

説せつ根拠こんきょ
1180 年ねん説せつ頼朝よりとも挙兵きょへい・侍所さむらいどころ設置せっち
1183 年ねん説せつ寿永じゅえい二年十月じゅうがつ宣旨せんじ公認こうにん
1185 年ねん説せつ守護しゅご・地頭じとう設置せっち勅許ちょっきょ (現行げんこう教科書きょうかしょの主流しゅりゅう)
1190 年ねん説せつ頼朝よりとも右近衛大将みぎこのえたいしょう就任しゅうにん
1192 年ねん説せつ征夷大将軍せいいたいしょうぐん就任しゅうにん (旧来きゅうらいの教おしえ)

諸説しょせつ注意ちゅうい: かつては 「いい国いいくに (1192) 作ろうつくろう鎌倉幕府かまくらばくふ」 と覚おぼえられていましたが、 現在げんざいの主流しゅりゅうは 「いい箱いいはこ (1185) 作ろうつくろう鎌倉幕府かまくらばくふ」 です。 これは 幕府ばくふとは何なにか (征夷大将軍せいいたいしょうぐんの地位ちいか、 実質じっしつ支配しはいか) をどう定義ていぎするかの問いといから来きています。

幕府ばくふの組織そしき

機関きかん役割やくわり
侍所さむらいどころ (1180)御家人ごけにん統制とうせい・軍事ぐんじ・警察けいさつ
政所まんどころ (公文所こうぶんしょ 1184)一般いっぱん政務せいむ・財政ざいせい
問注所もんちゅうじょ (1184)訴訟そしょう裁判さいばん
守護しゅご (各国かっこく 1 名めい)国内こくないの御家人ごけにん統率とうそつ・大犯三カ条だいはんさんかじょう
地頭じとう (荘園しょうえん・公おおやけ領りょう)年貢ねんぐ徴収ちょうしゅう・土地とち管理かんり

御恩と奉公ごおんとほうこう

武家ぶけ政権せいけんの根幹こんかんは 御恩ごおんと奉公ほうこう にありました。

内容ないよう
御恩ごおん将軍しょうぐんが御家人ごけにんに本領ほんりょう安堵あんど・新恩しんおん給与きゅうよ
奉公ほうこう御家人ごけにんが将軍しょうぐんに軍役ぐんえき・番役ばんやく

大事だいじ: この 双務そうむ契約けいやく が、 西欧せいおう中世ちゅうせいの 封建ほうけん制せい と似にているため、 歴史学れきしがくでは鎌倉かまくら幕府ばくふを 「封建ほうけん国家こっか」 と呼よぶことがあります。 ただし西欧せいおうの封建制ほうけんせいと完全かんぜんに同じおなじではなく、 諸説しょせつがあります。

2. 執権しっけん政治せいじと元もと寇

北条氏ほうじょうしの台頭たいとう

源頼朝みなもとのよりともの死し後ご、 源氏げんじ将軍しょうぐんは 3 代だいで絶たえ、 頼朝よりとも妻つま北条政子ほうじょうまさこの実家じっか 北条氏ほうじょうし が 執権しっけん として実権じっけんを握にぎりました。

年ねん事件じけん
1199源頼朝みなもとのよりとも死去しきょ、 頼家よりいえ継承けいしょう
1203北条時政ほうじょうときまさ初代しょだい執権しっけん
1219源実朝みなもとのさねとも暗殺あんさつ、 源氏げんじ将軍しょうぐん断絶だんぜつ
1221承久の乱じょうきゅうのらん — 後鳥羽上皇ごとばじょうこう vs 北条義時ほうじょうよしとき、 幕府ばくふ勝利しょうり
1232御成敗式目ごせいばいしきもく (貞永式目じょうえいしきもく) 制定せいてい — 北条泰時ほうじょうやすとき
1247宝治合戦ほうじかっせん — 三浦氏みうらし滅亡めつぼう
1274文永の役ぶんえいのえき (元寇げんこう 1)
1281弘安の役こうあんのえき (元寇げんこう 2)
1297永仁えいにんの徳政令とくせいれい
1333鎌倉幕府かまくらばくふ滅亡めつぼう (新田義貞にったよしさだ・足利尊氏あしかがたかうじら)

承久の乱じょうきゅうのらん (1221 年ねん)

後鳥羽上皇ごとばじょうこう が幕府ばくふ打倒だとうの兵へいを挙あげましたが、 北条政子ほうじょうまさこの演説えんぜつと北条義時ほうじょうよしときの統率とうそつで幕府ばくふが圧勝あっしょう。 後鳥羽上皇ごとばじょうこうは隠岐おきへ配流はいる、 幕府ばくふは 六波羅探題ろくはらたんだい を京都きょうとに設せっ置ちし、 公家くげを武家ぶけが監視かんし する体制たいせいを確立かくりつしました。

大事だいじ: 承久の乱じょうきゅうのらんは公家くげと武家ぶけの力ちから関係かんけいを 逆転ぎゃくてん させた画期がきです。 これ以い降こう、 朝廷ちょうていも幕府ばくふの許もと可がなければ皇位こうい継承けいしょうを決きめられなくなりました。

御成敗式目ごせいばいしきもく (1232 年ねん)

3 代執権しっけん 北条泰時ほうじょうやすとき が制定せいていした 51 か条じょうの武家ぶけ法ほう。 源頼朝みなもとのよりとも以来いらいの先例せんれいと道理どうりに基もとづきます。

  • 武家ぶけ最初さいしょ の体系たいけい的てき法典ほうてん
  • 後ごの武家ぶけ法ほうの基本きほんとなる (戦国せんごく分国法ぶんこくほう・江戸えど武家諸法度ぶけしょはっとなど)

元寇げんこう (1274・1281 年ねん)

モンゴル帝国ていこくのフビライふびらい・ハーンが国号こくごうを 元げん と改あらため、 日本にほんに服属ふくぞくを求もとめてきました。 執権しっけん 北条時宗ほうじょうときむね は拒否きょひ、 元げんが侵攻しんこうしてきました。

戦せん年ねん内容ないよう
文永の役ぶんえいのえき1274元げん・高麗こうらい連合れんごう軍ぐんが博多はかた湾わん上陸じょうりく、 暴風雨ぼうふううで撤てっ退たい
弘安の役こうあんのえき128114 万まん大軍たいぐん侵攻しんこう、 神風かみかぜ で壊滅かいめつ

諸説しょせつ注意ちゅうい: 「神風かみかぜ」 (= 暴風雨ぼうふうう) で元げんが撤てっ退たいしたことは 事実じじつ ですが、 実際じっさいには幕府ばくふ軍ぐんの防戦ぼうせん・博多はかた湾わん沿岸えんがんの 石塁せきるい (防塁ぼうるい) 整備せいび・元げん軍ぐん内部ないぶの不和ふわなど複ふく数すう要因よういんがありました。 「神風かみかぜ」 だけを強調きょうちょうするのは 皇国史観こうこくしかん寄より の解釈かいしゃくであり、 高校こうこうでは多角たかく的てきに学まなびます。

元寇げんこうの影響えいきょう

  • 御家人ごけにんは防衛ぼうえい戦せんで出費しゅっぴしたが、 新恩しんおん給与きゅうよなし → 御家人ごけにん窮乏きゅうぼう
  • 1297 年ねん 永仁えいにんの徳政令とくせいれい — 御家人ごけにん借金しゃっきん帳消しちょうけし、 効果こうか限定げんてい
  • 幕府ばくふへの不満ふまん蓄積ちくせき → 鎌倉幕府かまくらばくふ滅亡めつぼう (1333) へ

3. 鎌倉かまくら新しん仏教ぶっきょう

鎌倉時代かまくらじだいには、 末法まっぽう思想しそうと戦乱せんらん不安ふあんのなかで、 万人まんにん救済きゅうさい を説とく 「新仏教しんぶっきょう」 が次々つぎつぎと登場とうじょうしました。

宗そう開祖かいそ中心ちゅうしん教義きょうぎ代表だいひょう寺てら
浄土宗じょうどしゅう法然ほうねん専修せんしゅう念仏ねんぶつ (「南無阿弥陀仏なむあみだぶつ」)知恩院ちおんいん
浄土真宗じょうどしんしゅう親鸞しんらん悪人あくにん正機しょうき本願寺ほんがんじ
時宗じしゅう一遍いっぺん踊念仏おどりねんぶつ清浄光寺しょうじょうこうじ
日蓮宗にちれんしゅう日蓮にちれん「南無妙法蓮華経なむみょうほうれんげきょう」久遠寺くおんじ
臨済宗りんざいしゅう栄西えいさい公案こうあん禅ぜん建仁寺けんにんじ
曹洞宗そうとうしゅう道元どうげん只管打坐しかんたざ永平寺えいへいじ

新仏教しんぶっきょうの共通きょうつう特色とくしょく

  1. 教義きょうぎの簡略かんりゃく化か — 念仏ねんぶつ・題目だいもく・座禅ざぜんの 1 つに専念せんねん
  2. 万人まんにん救済きゅうさい — 庶民しょみんや武士ぶしも救すくわれる
  3. 出家しゅっけ必須ひっすでない (一部いちぶ)

親鸞しんらんの 「悪人正機あくにんしょうき」

親鸞しんらんの 「歎異抄たんにしょう」 には 「善人ぜんにんなおもて往生おうじょうを遂ぐ、 いわんや悪人あくにんをや」 とあり、 煩悩ぼんのうを自覚じかくした悪人あくにんこそ阿弥陀あみだの救済きゅうさい対象たいしょうとしました。 従来じゅうらいの 善因善果ぜんいんぜんか を超こえる革新かくしん的てき教義きょうぎです。

禅宗ぜんしゅうと武士ぶし

栄西えいさい臨済宗りんざいしゅう・道元どうげん曹洞宗そうとうしゅうなどの 禅宗ぜんしゅう は、 精神せいしん鍛錬たんれんを重おも視する禅ぜんが 武士ぶし に受容じゅようされ、 後ごの武家ぶけ文化ぶんかに大おおきな影響えいきょうを与あたえました。

4. 鎌倉かまくら文化ぶんかと建武けんむの新政しんせい

鎌倉文化かまくらぶんか

公家くげ文化ぶんかの伝統でんとうを受うけ継つぎつつ、 武家ぶけの気風きふうを加くわえた文化ぶんかが育そだちました。

分野ぶんや代表だいひょう
文学ぶんがく新古今和歌集しんこきんわかしゅう (1205、 藤原定家ふじわらのていから)・方丈記ほうじょうき (鴨長明かものちょうめい)・徒然草つれづれぐさ (吉田兼好よしだけんこう)・平家物語へいけものがたり (琵琶法師びわほうし語かたり)
彫刻ちょうこく東大寺南大門とうだいじなんだいもん金剛力士像こんごうりきしぞう (運慶うんけい・快慶かいけい)
建築けんちく東大寺南大門とうだいじなんだいもん (大仏様ぶつよう)・円覚寺えんかくじ舎利殿しゃりどの (禅宗様ぜんしゅうさま)
歴史書れきししょ吾妻鏡あづまかがみ (幕府ばくふ編)・愚管抄ぐかんしょう (慈円じえん) — 「道理どうり」 で歴史れきしを解釈かいしゃく

鎌倉幕府かまくらばくふ滅亡めつぼう (1333 年ねん)

14 世紀せいき初頭しょとう、 後醍醐天皇ごだいごてんのう が親政しんせいを復活ふっかつさせようとして幕府ばくふ打倒だとうを計画けいかく (元弘げんこうの変へん)。 足利尊氏あしかがたかうじ・新田義貞にったよしさだらが呼応こおうし、 1333 年ねん北条ほうじょう一族いちぞくが鎌倉かまくらで自刃じじん、 鎌倉幕府かまくらばくふ滅亡めつぼう。

建武の新政けんむのしんせい (1333-36 年ねん)

後醍醐天皇ごだいごてんのうが公家くげ一統いっとうの親政しんせいを始はじめましたが、 武士ぶしの不満ふまんを招まねき、 足利尊氏あしかがたかうじが離反りはん。 1336 年ねん後醍醐ごだいごは吉野よしのに逃のがれ、 南北朝時代なんぼくちょうじだいへ。

諸説しょせつ注意ちゅうい: 「建武の新政けんむのしんせい」 の評価ひょうかは歴史観れきしかんにより異ことなります。 戦せん前ぜんの皇国史観こうこくしかんは 「天皇てんのう親政しんせいの理想りそう」 として称賛しょうさんしましたが、 戦後せんご歴史学れきしがくは 「時代じだい錯誤さくご・公家くげ偏重へんちょうで 失敗しっぱいすべくして失敗しっぱい」 と評価ひょうかする傾向けいこうがあります。

5. 室町むろまち幕府ばくふと南北なんぼく朝あさ

南北朝時代なんぼくちょうじだい (1336-1392)

後醍醐天皇ごだいごてんのうの 南朝なんちょう (吉野よしの) と、 足利尊氏あしかがたかうじが擁立ようりつした 北朝ほくちょう (京都きょうと) が対立たいりつし、 約やく 60 年ねん並立へいりつしました。

諸説しょせつ注意ちゅうい: 「南北朝なんぼくちょう正閏せいじゅん論争ろんそう」 — どちらが正統せいとうかは江戸えど後期こうきから論争ろんそうがあり、 戦前せんぜんの南朝なんちょう正統せいとう説せつ (皇国史観こうこくしかん) と、 公家くげ政権せいけんの実態じったいからの議論ぎろんがあります。 現在げんざいは 「両朝りょうちょう並立へいりつ」 を実証じっしょう的に学まなぶのが一般いっぱん的てきです。

室町幕府むろまちばくふの成立せいりつ

1336 年足利尊氏あしかがたかうじが建武式目けんむしきもくを制定せいてい、 1338 年征夷大将軍せいいたいしょうぐん就任しゅうにん。 1378 年ねん 3 代足利義満あしかがよしみつが京都きょうと室町むろまちに 花の御所はなのごしょ を造営ぞうえい、 ここから 「室町幕府むろまちばくふ」 「室町時代むろまちじだい」 の名なが来きます。

足利義満あしかがよしみつの政治せいじ

年ねん事件じけん
1378花の御所はなのごしょ造営ぞうえい
1392南北朝なんぼくちょう合一ごういつ — 北朝ほくちょう統一とういつ
1394太政大臣だじょうだいじん就任しゅうにん (出家しゅっけ後ごも実権じっけん)
1397金閣きんかく (鹿苑寺ろくおんじ) 造営ぞうえい
1404勘合貿易かんごうぼうえき 開始かいし — 明みんと国交こっこう

勘合貿易かんごうぼうえき

明みん (1368年ねん建国けんこく) は 海禁かいきん政策せいさく をとり、 正規せいきの国交こっこう (= 朝貢ちょうこう貿易ぼうえき) でなければ貿易ぼうえきを認みとめませんでした。 足利義満あしかがよしみつは 日本にほん国王こくおう として明みん皇帝こうていから 冊封さつふう を受うけ、 勘合符かんごうふ (割符わりふ認証にんしょう文書ぶんしょ) を用もちいた勘合貿易かんごうぼうえきを始はじめました。

諸説しょせつ注意ちゅうい: 足利義満あしかがよしみつが明みん皇帝こうていから 「日本にほん国王こくおう」 称号しょうごうを受容じゅようしたことは、 戦せん前ぜんの皇国史観こうこくしかんから 国辱こくじょく と批判ひはんされました。 現代げんだい歴史学れきしがくは 実利じつり外交がいこう (貿易ぼうえき利益りえき) として評価ひょうかする傾向けいこうがあります。

守護しゅごから守護大名しゅごだいみょうへ

南北朝なんぼくちょう期きに守護しゅごの権限けんげんが拡大かくだいし、 半済令はんせいれい (年貢ねんぐ半分はんぶん取得しゅとく権けん) や 守護請しゅごうけ (国衙領こくがりょう一括いっかつ請負うけおい) を得えて、 国くにを支配しはいする 守護大名しゅごだいみょう に成長せいちょうしました。

6. 北山きたやま文化ぶんかと東山ひがしやま文化ぶんか

北山文化きたやまぶんか (足利義満あしかがよしみつ期き)

金色にかがやく金閣(鹿苑寺)と池に映る姿
金閣きんかく(鹿苑寺ろくおんじ)。足利義満あしかがよしみつ が造営ぞうえいした 北山文化きたやまぶんか の代表だいひょう建築けんちく。公家くげの寝殿造しんでんづくりと禅宗ぜんしゅう様さまを折衷せっちゅうする。
分野ぶんや代表だいひょう
建築けんちく金閣きんかく (鹿苑寺ろくおんじ) — 公家くげ寝殿造しんでんづくり + 禅宗ぜんしゅう様よう折衷せっちゅう
能のう観阿弥かんあみ・世阿弥ぜあみ 親子おやこ、 義満よしみつ庇護ひご、 「風姿花伝ふうしはなでん」
絵画かいが水墨画すいぼくが流入りゅうにゅう
文学ぶんがく五山文学ごさんぶんがく (禅僧ぜんそうの漢詩かんし)

東山文化ひがしやまぶんか (足利義政あしかがよしまさ期き)

分野ぶんや代表だいひょう
建築けんちく銀閣ぎんかく (慈照寺じしょうじ)・書院造しょいんづくり (現代げんだい和室わしつの原型げんけい)
絵画かいが雪舟せっしゅう の水墨画すいぼくが (「四季山水図しきさんすいず」)
茶の湯ちゃのゆ村田珠光むらたじゅこう が わび茶わびちゃ の祖そ
庭園ていえん枯山水かれさんすい (龍安寺りゅうあんじ石庭せきてい・大徳寺だいとくじ大仙院だいせんいん)
生け花いけばな池坊専慶いけのぼうせんけい
連歌れんが宗祇そうぎ

大事だいじ: 書院造しょいんづくり・わび茶わびちゃ・枯山水かれさんすい・生け花いけばななど、 現代げんだいの 「日本にほんらしさ」 とされる多おおくの文化ぶんか要素ようそが、 東山文化ひがしやまぶんかに起源きげんを持もちます。 公家くげ・武家ぶけ・禅宗ぜんしゅうが融合ゆうごうし、 禅ぜんの簡素かんそ・幽玄ゆうげん美よし意識いしきが基調きちょうとなりました。

7. 応仁おうにんの乱らんと下剋上げこくじょう

応仁の乱おうにんのらん (1467-1477)

8 代将軍しょうぐん 足利義政あしかがよしまさ の後継こうけい争いあらそい (実子じっし義尚よしひさ vs 弟おとうと義視よしみ) を契機けいきに、 守護大名しゅごだいみょうの細川勝元ほそかわかつもと (東ひがし軍ぐん) と 山名宗全やまなそうぜん (西にし軍ぐん) が対立たいりつ、 京都きょうとを戦場せんじょうに 11 年ねん戦たたかいました。

  • 京都きょうと市街しがいが焦土しょうど、 公家くげ・僧侶そうりょが地方ちほうへ避難ひなん (= 文化ぶんか地方ちほう拡散かくさん)
  • 幕府ばくふ権威けんい失墜しっつい
  • 守護大名しゅごだいみょうが在京ざいきょう中ちゅうに領国りょうごくで家臣かしんが実権じっけん奪取だっしゅ = 下剋上げこくじょう の始まりはじまり

戦国時代せんごくじだいへ

応仁の乱おうにんのらん後、 守護代しゅごだい や 国人くにびと が守護大名しゅごだいみょうを倒たおし、 自みずから 戦国大名せんごくだいみょう となる 下剋上げこくじょう が全国ぜんこくで起おきました。 ここから 戦国時代せんごくじだい が始はじまります (諸説しょせつあり、 応仁の乱おうにんのらん勃発ぼっぱつ (1467) または終結しゅうけつ (1477) を起点きてんとする)。

惣村そうそんと一揆いっき

室町むろまち後期こうきには、 村むらが 惣村そうそん として自治じちを強つよめ、 年貢ねんぐ減免げんめんや徳政とくせいを求もとめて一揆いっきを起おこしました。

一揆いっき内容ないよう
正長の土一揆せいちょうのどいっき (1428)近江おうみ馬借ばしゃく蜂起ほうき、 徳政とくせい要求ようきゅう
嘉吉の徳政一揆かきつのとくせいいっき (1441)嘉吉の乱かきつのらん後の徳政令とくせいれい獲得かくとく
山城の国一揆やましろのくにいっき (1485-93)国人くにびと・惣村そうそんが守護しゅご追放ついほう・8 年ねん自治じち
加賀の一向一揆かがのいっこういっき (1488-1580)浄土真宗じょうどしんしゅう門徒もんと・約やく 100 年ねん加賀かが支配しはい

8. ふりかえり

この章しょうで学まなんだことを確かく認にんしましょう。

  • [ ]源頼朝みなもとのよりとも・侍所さむらいどころ・政所まんどころ・問注所もんちゅうじょ・守護しゅご・地頭じとうと幕府ばくふ組織そしきを説せつ明めいできる
  • [ ]鎌倉幕府かまくらばくふ成立せいりつ論争ろんそう (1180/1183/1185/1190/1192) を知しっている
  • [ ]御恩ごおんと奉公ほうこう・一所懸命いっしょけんめいと武家ぶけ政権せいけんの仕組しくみを言いえる
  • [ ]北条氏ほうじょうし執権政治しっけんせいじ・承久の乱じょうきゅうのらん (1221)・御成敗式目ごせいばいしきもく (1232) を説せつ明めいできる
  • [ ]元寇げんこう (文永ぶんえい 1274・弘安こうあん 1281) とその影響えいきょう (御家人ごけにん窮乏きゅうぼう・徳政令とくせいれい) を言いえる
  • [ ]鎌倉新仏教かまくらしんぶっきょう 6 派は (法然ほうねん・親鸞しんらん・一遍いっぺん・日蓮にちれん・栄西えいさい・道元どうげん) を知しっている
  • [ ]親鸞しんらんの 悪人正機あくにんしょうき など新仏教しんぶっきょうの革新性かくしんせいを言いえる
  • [ ]鎌倉かまくら文化ぶんか (新古今和歌集しんこきんわかしゅう・平家物語へいけものがたり・運慶うんけい金剛力士像こんごうりきしぞう) を知しっている
  • [ ]鎌倉幕府かまくらばくふ滅亡めつぼう (1333)・建武の新政けんむのしんせい・南北朝なんぼくちょう並立へいりつを説せつ明めいできる
  • [ ]足利義満あしかがよしみつ・南北朝なんぼくちょう合一ごういつ (1392)・勘合貿易かんごうぼうえき (1404)・日本国王にっぽんこくおう称号しょうごうを説せつ明めいできる
  • [ ]守護しゅごから守護大名しゅごだいみょうへ (半済令はんせいれい・守護請しゅごうけ) を言いえる
  • [ ]北山文化きたやまぶんか (金閣きんかく・能のう)・東山文化ひがしやまぶんか (銀閣ぎんかく・書院造しょいんづくり・わび茶わびちゃ・水墨画すいぼくが) を知しっている
  • [ ]応仁の乱おうにんのらん (1467-77)・下剋上げこくじょう・惣村そうそん・国一揆くにいっき・一向一揆いっこういっきを説せつ明めいできる

この章しょうの安全あんぜん配慮はいりょ (城しろ・古戦場こせんじょうマナーと文化財ぶんかざい保護ほご)

鎌倉かまくら・室町むろまち時代じだいの学習がくしゅうでは、 つぎのことを必かならず守まもりましょう。

  • 城しろ・城跡じょうせき見学けんがく では、 復元ふくげん建物たてものや石垣いしがきに落書きらくがきやいたずらをしない (文化財保護法ぶんかざいほごほう違反いはんで罰則ばっそくあり)。 ロープや柵しがらみの内側うちがわに入はいらない
  • 古戦場こせんじょう (壇ノ浦だんのうら・博多はかた湾わん防塁ぼうるい・湊川みなとがわ等とう) は 戦没者せんぼつしゃの供養くようの地ち であり、 静しずかに訪おとずれ、 騒さわがない
  • 寺院じいん・神社じんじゃ見学けんがく では、 本堂ほんどう・仏像ぶつぞうの前まえで静しずかに。 フラッシュ撮影さつえい禁止きんし・撮影さつえい禁止きんしエリアを必かならず守まもる
  • 国宝こくほう仏像ぶつぞう・絵画かいが・書しょ・茶器ちゃき には直接ちょくせつ触ふれない (皮脂ひし・湿気しっけが文化財ぶんかざいを傷いためる)
  • 元寇げんこう に関かんして、 戦せん前ぜんの皇国史観こうこくしかんが 「神風かみかぜが国くにを救すくった」 と強調きょうちょうした歴史れきしがあるが、 現在げんざいは 実証じっしょう的てき に防塁ぼうるい・元げん側がわ事情じじょう・暴風雨ぼうふううなど複ふく数すう要因よういんを学まなぶ
  • 歴史れきし上じょうの英雄えいゆう (源義経みなもとのよしつね・楠木正成くすのきまさしげ等とう) を美化びか・英雄化えいゆうかする物語ものがたりは多おおいが、 「一次史料いちじしりょうと後世こうせい伝承でんしょう の区別くべつ」 を基本きほんとする

次じの章しょう: 第だい 6 章しょうでは、 戦国時代せんごくじだい と 安土桃山時代あづちももやまじだい を学まなびます。 戦国大名せんごくだいみょう・鉄砲伝来てっぽうでんらい・キリスト教伝来きりすときょうでんらい・織田信長おだのぶなが・豊臣秀吉とよとみひでよし・太閤検地たいこうけんち・刀狩かたながり・朝鮮出兵ちょうせんしゅっぺい・桃山文化ももやまぶんかまで、 中世ちゅうせいから近世きんせいへの転換てんかん期きを学まなびます。

まとめ — 鎌倉かまくら・室町むろまち時代じだいを 3 行くだりで

  • 源頼朝みなもとのよりともが鎌倉かまくら幕府ばくふを開ひらき、 北条氏ほうじょうしの執権政治しっけんせいじと御成敗式目ごせいばいしきもく (1232) で武家ぶけ政治せいじが確立かくりつした
  • 鎌倉かまくら後期こうきの元寇げんこうを経へて、 建武の新政けんむのしんせいのあと室町幕府むろまちばくふが開ひらかれ北山ほくざん・東山ひがしやま文化ぶんかが栄さかえる
  • 応仁の乱おうにんのらん (1467-77) を機きに中央ちゅうおうの統制とうせいが緩ゆるみ惣村そうそん・一向一揆いっこういっきなど民衆みんしゅうの動うごきが強つよまり戦国せんごく期きへと移行いこう
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学がく習しゅうロードマップ(10件けん)
  1. 1日本にほん史し探究たんきゅう入門にゅうもん (歴史れきし的てき思考しこうと史料しりょう)
  2. 2原始時代げんしじだい (旧きゅう石器せっき・縄文じょうもん・弥生やよい)
  3. 3古墳こふん・飛鳥あすか時代じだい (古代こだい国家こっかの成立せいりつ)
  4. 4奈良なら・平安へいあん時代じだい (律令りつりょう国家こっかの発展はってんと変容へんよう)
  5. 5鎌倉かまくら・室町むろまち時代じだい (中世ちゅうせい武家ぶけ政権せいけん)
  6. 6戦国せんごく・安土あづち桃山ももやま時代じだい (中世ちゅうせい末まつから近世きんせいへ)
  7. 7江戸えど時代じだい (近世きんせい社会しゃかいの確立かくりつ)
  8. 8幕末ばくまつ・明治維新めいじいしん (近代きんだい化かの出発しゅっぱつ、 1853-1889)
  9. 9明治めいじ後期こうき・大正たいしょう・昭和しょうわ前期ぜんき (帝国ていこく主義しゅぎと戦争せんそう、 1890-1945)
  10. 10戦後せんご日本にほん (現代げんだい、 1945- )