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日本史探究

鎌倉かまくら室町むろまち時代じだい (中世ちゅうせい武家ぶけ政権せいけん)

最終確認日:

このしょうまなぶこと

1185 年平氏へいし滅亡めつぼうのち源頼朝みなもとのよりとも鎌倉かまくら幕府ばくふひらいて 武家ぶけ政権せいけんはじまります。 ここから 1573 年室町幕府むろまちばくふ滅亡めつぼうまでのやく 4 世紀せいき中世ちゅうせい です。

中学ちゅうがくまなんだ 「源頼朝みなもとのよりとも」 「元寇げんこう」 「足利義満あしかがよしみつ」 「応仁の乱おうにんのらん」 を、 高校こうこうでは 公家くげ武家ぶけ二元にげん支配しはい東アジアひがしあじあ国際こくさい秩序ちつじょ (そうげんみん)、 荘園しょうえん公領こうりょうせいから守護しゅご領国りょうごくせい変容へんようじくまなびます。

  • 鎌倉時代かまくらじだい (1185-1333) — 源頼朝みなもとのよりとも御恩と奉公ごおんとほうこう執権政治しっけんせいじ御成敗式目ごせいばいしきもく元寇げんこう
  • 鎌倉かまくら新仏教しんぶっきょう法然ほうねん親鸞しんらん日蓮にちれん道元どうげん栄西えいさい
  • 南北朝時代なんぼくちょうじだい (1336-1392) と建武の新政けんむのしんせい
  • 室町時代むろまちじだい (1336-1573) — 足利義満あしかがよしみつ勘合貿易かんごうぼうえき守護大名しゅごだいみょう
  • 北山きたやま文化ぶんか東山ひがしやま文化ぶんか金閣きんかく銀閣ぎんかくのう茶の湯ちゃのゆ水墨画すいぼくが
  • 応仁の乱おうにんのらん (1467-77) と下剋上げこくじょう戦国せんごく

大事だいじ: 中世ちゅうせいのキー概念がいねんは 「公武こうぶ二元にげん支配しはい」 と 「一所懸命いっしょけんめい」 です。 公家くげ (朝廷ちょうてい摂関せっかん院政いんせい) と武家ぶけ (幕府ばくふ) が 併存へいそん し、 武士ぶし所領しょりょういのちがけでまもりました。 この 「一所懸命いっしょけんめい」 がの 「一生懸命いっしょうけんめい」 の語源ごげんとされます。

1. 鎌倉かまくら幕府ばくふ成立せいりつ

源頼朝みなもとのよりとも挙兵きょへい幕府ばくふ成立せいりつ

平氏へいし政権せいけん反発はんぱつした源頼朝みなもとのよりとも (1147-1199) は、 1180 ねん伊豆いず挙兵きょへい し、 鎌倉かまくら拠点きょてんとしました。

ねん事件じけん
1180源頼朝みなもとのよりとも挙兵きょへい鎌倉かまくら入府にゅうふ侍所さむらいどころ 設置せっち
1183寿永じゅえい二年十月じゅうがつ宣旨せんじ東国とうごく支配しはいけん公認こうにん
1184公文所こうぶんしょ (のち政所まんどころ)・問注所もんちゅうじょ 設置せっち
1185壇ノ浦だんのうら平氏へいし滅亡めつぼう守護しゅご地頭じとう 設置せっち勅許ちょっきょ
1189奥州おうしゅう藤原氏ふじわらし滅亡めつぼう
1192源頼朝みなもとのよりとも 征夷大将軍せいいたいしょうぐん 就任しゅうにん

鎌倉幕府かまくらばくふ成立せいりつ論争ろんそう

鎌倉幕府かまくらばくふ成立せいりつねんをどこにくかは 諸説しょせつ あり、 大学だいがく入試にゅうしでもさえるべき論点ろんてんです。

せつ根拠こんきょ
1180 ねんせつ頼朝よりとも挙兵きょへい侍所さむらいどころ設置せっち
1183 ねんせつ寿永じゅえい二年十月じゅうがつ宣旨せんじ公認こうにん
1185 ねんせつ守護しゅご地頭じとう設置せっち勅許ちょっきょ (現行げんこう教科書きょうかしょ主流しゅりゅう)
1190 ねんせつ頼朝よりとも右近衛大将みぎこのえたいしょう就任しゅうにん
1192 ねんせつ征夷大将軍せいいたいしょうぐん就任しゅうにん (旧来きゅうらいおしえ)

諸説しょせつ注意ちゅうい: かつては 「いい国いいくに (1192) 作ろうつくろう鎌倉幕府かまくらばくふ」 とおぼえられていましたが、 現在げんざい主流しゅりゅうは 「いい箱いいはこ (1185) 作ろうつくろう鎌倉幕府かまくらばくふ」 です。 これは 幕府ばくふとはなに (征夷大将軍せいいたいしょうぐん地位ちいか、 実質じっしつ支配しはいか) をどう定義ていぎするかの問いといからています。

幕府ばくふ組織そしき

機関きかん役割やくわり
侍所さむらいどころ (1180)御家人ごけにん統制とうせい軍事ぐんじ警察けいさつ
政所まんどころ (公文所こうぶんしょ 1184)一般いっぱん政務せいむ財政ざいせい
問注所もんちゅうじょ (1184)訴訟そしょう裁判さいばん
守護しゅご (各国かっこく 1 めい)国内こくない御家人ごけにん統率とうそつ大犯三カ条だいはんさんかじょう
地頭じとう (荘園しょうえんおおやけりょう)年貢ねんぐ徴収ちょうしゅう土地とち管理かんり

御恩と奉公ごおんとほうこう

武家ぶけ政権せいけん根幹こんかん御恩ごおん奉公ほうこう にありました。

内容ないよう
御恩ごおん将軍しょうぐん御家人ごけにん本領ほんりょう安堵あんど新恩しんおん給与きゅうよ
奉公ほうこう御家人ごけにん将軍しょうぐん軍役ぐんえき番役ばんやく

大事だいじ: この 双務そうむ契約けいやく が、 西欧せいおう中世ちゅうせい封建ほうけんせいているため、 歴史学れきしがくでは鎌倉かまくら幕府ばくふを 「封建ほうけん国家こっか」 とぶことがあります。 ただし西欧せいおう封建制ほうけんせい完全かんぜん同じおなじではなく、 諸説しょせつがあります。

2. 執権しっけん政治せいじもと

北条氏ほうじょうし台頭たいとう

源頼朝みなもとのよりとも源氏げんじ将軍しょうぐんは 3 だいえ、 頼朝よりともつま北条政子ほうじょうまさこ実家じっか 北条氏ほうじょうし執権しっけん として実権じっけんにぎりました。

ねん事件じけん
1199源頼朝みなもとのよりとも死去しきょ頼家よりいえ継承けいしょう
1203北条時政ほうじょうときまさ初代しょだい執権しっけん
1219源実朝みなもとのさねとも暗殺あんさつ源氏げんじ将軍しょうぐん断絶だんぜつ
1221承久の乱じょうきゅうのらん後鳥羽上皇ごとばじょうこう vs 北条義時ほうじょうよしとき幕府ばくふ勝利しょうり
1232御成敗式目ごせいばいしきもく (貞永式目じょうえいしきもく) 制定せいてい北条泰時ほうじょうやすとき
1247宝治合戦ほうじかっせん三浦氏みうらし滅亡めつぼう
1274文永の役ぶんえいのえき (元寇げんこう 1)
1281弘安の役こうあんのえき (元寇げんこう 2)
1297永仁えいにん徳政令とくせいれい
1333鎌倉幕府かまくらばくふ滅亡めつぼう (新田義貞にったよしさだ足利尊氏あしかがたかうじら)

承久の乱じょうきゅうのらん (1221 ねん)

後鳥羽上皇ごとばじょうこう幕府ばくふ打倒だとうへいげましたが、 北条政子ほうじょうまさこ演説えんぜつ北条義時ほうじょうよしとき統率とうそつ幕府ばくふ圧勝あっしょう後鳥羽上皇ごとばじょうこう隠岐おき配流はいる幕府ばくふ六波羅探題ろくはらたんだい京都きょうとせっし、 公家くげ武家ぶけ監視かんし する体制たいせい確立かくりつしました。

大事だいじ: 承久の乱じょうきゅうのらん公家くげ武家ぶけちから関係かんけい逆転ぎゃくてん させた画期がきです。 これこう朝廷ちょうてい幕府ばくふもと可がなければ皇位こうい継承けいしょうめられなくなりました。

御成敗式目ごせいばいしきもく (1232 ねん)

3 代執権しっけん 北条泰時ほうじょうやすとき制定せいていした 51 かじょう武家ぶけほう源頼朝みなもとのよりとも以来いらい先例せんれい道理どうりもとづきます。

  • 武家ぶけ最初さいしょ体系たいけいてき法典ほうてん
  • 武家ぶけほう基本きほんとなる (戦国せんごく分国法ぶんこくほう江戸えど武家諸法度ぶけしょはっとなど)

元寇げんこう (1274・1281 ねん)

モンゴル帝国ていこくフビライふびらい・ハーンが国号こくごうげんあらため、 日本にほん服属ふくぞくもとめてきました。 執権しっけん 北条時宗ほうじょうときむね拒否きょひげん侵攻しんこうしてきました。

せんねん内容ないよう
文永の役ぶんえいのえき1274げん高麗こうらい連合れんごうぐん博多はかたわん上陸じょうりく暴風雨ぼうふううてっ退たい
弘安の役こうあんのえき128114 まん大軍たいぐん侵攻しんこう神風かみかぜ壊滅かいめつ

諸説しょせつ注意ちゅうい:神風かみかぜ」 (= 暴風雨ぼうふうう) でげんてっ退たいしたことは 事実じじつ ですが、 実際じっさいには幕府ばくふぐん防戦ぼうせん博多はかたわん沿岸えんがん石塁せきるい (防塁ぼうるい) 整備せいびげんぐん内部ないぶ不和ふわなどふくすう要因よういんがありました。 「神風かみかぜ」 だけを強調きょうちょうするのは 皇国史観こうこくしかん解釈かいしゃくであり、 高校こうこうでは多角たかくてきまなびます。

元寇げんこう影響えいきょう

  • 御家人ごけにん防衛ぼうえいせん出費しゅっぴしたが、 新恩しんおん給与きゅうよなし → 御家人ごけにん窮乏きゅうぼう
  • 1297 ねん 永仁えいにん徳政令とくせいれい御家人ごけにん借金しゃっきん帳消しちょうけし効果こうか限定げんてい
  • 幕府ばくふへの不満ふまん蓄積ちくせき鎌倉幕府かまくらばくふ滅亡めつぼう (1333) へ

3. 鎌倉かまくらしん仏教ぶっきょう

鎌倉時代かまくらじだいには、 末法まっぽう思想しそう戦乱せんらん不安ふあんのなかで、 万人まんにん救済きゅうさいく 「新仏教しんぶっきょう」 が次々つぎつぎ登場とうじょうしました。

そう開祖かいそ中心ちゅうしん教義きょうぎ代表だいひょうてら
浄土宗じょうどしゅう法然ほうねん専修せんしゅう念仏ねんぶつ (「南無阿弥陀仏なむあみだぶつ」)知恩院ちおんいん
浄土真宗じょうどしんしゅう親鸞しんらん悪人正機あくにんしょうき本願寺ほんがんじ
時宗じしゅう一遍いっぺん踊念仏おどりねんぶつ清浄光寺しょうじょうこうじ
日蓮宗にちれんしゅう日蓮にちれん南無妙法蓮華経なむみょうほうれんげきょう久遠寺くおんじ
臨済宗りんざいしゅう栄西えいさい公案こうあんぜん建仁寺けんにんじ
曹洞宗そうとうしゅう道元どうげん只管打坐しかんたざ永平寺えいへいじ

新仏教しんぶっきょう共通きょうつう特色とくしょく

  1. 教義きょうぎ簡略かんりゃく念仏ねんぶつ題目だいもく座禅ざぜんの 1 つに専念せんねん
  2. 万人まんにん救済きゅうさい庶民しょみん武士ぶしすくわれる
  3. 出家しゅっけ必須ひっすでない (一部いちぶ)

親鸞しんらんの 「悪人正機あくにんしょうき

親鸞しんらんの 「歎異抄たんにしょう」 には 「善人ぜんにんなおもて往生おうじょうを遂ぐ、 いわんや悪人あくにんをや」 とあり、 煩悩ぼんのう自覚じかくした悪人あくにんこそ阿弥陀あみだ救済きゅうさい対象たいしょうとしました。 従来じゅうらい善因善果ぜんいんぜんかえる革新かくしんてき教義きょうぎです。

禅宗ぜんしゅう武士ぶし

栄西えいさい臨済宗りんざいしゅう道元どうげん曹洞宗そうとうしゅうなどの 禅宗ぜんしゅう は、 精神せいしん鍛錬たんれんおも視するぜん武士ぶし受容じゅようされ、 武家ぶけ文化ぶんかおおきな影響えいきょうあたえました。

4. 鎌倉かまくら文化ぶんかたてたけし新政しんせい

鎌倉文化かまくらぶんか

公家くげ文化ぶんか伝統でんとうぎつつ、 武家ぶけ気風きふうくわえた文化ぶんかそだちました。

分野ぶんや代表だいひょう
文学ぶんがく新古今和歌集しんこきんわかしゅう (1205、 藤原定家ふじわらのていから)・方丈記ほうじょうき (鴨長明かものちょうめい)・徒然草つれづれぐさ (吉田兼好よしだけんこう)・平家物語へいけものがたり (琵琶法師びわほうしかたり)
彫刻ちょうこく東大寺とうだいじ南大門なんだいもん金剛力士像こんごうりきしぞう (運慶うんけい快慶かいけい)
建築けんちく東大寺とうだいじ南大門なんだいもん (大仏様ぶつよう)・円覚寺えんかくじ舎利殿しゃりどの (禅宗様ぜんしゅうさま)
歴史書れきししょ吾妻鏡あづまかがみ (幕府ばくふ編)・愚管抄ぐかんしょう (慈円じえん) — 「道理どうり」 で歴史れきし解釈かいしゃく

鎌倉幕府かまくらばくふ滅亡めつぼう (1333 ねん)

14 世紀せいき初頭しょとう後醍醐天皇ごだいごてんのう親政しんせい復活ふっかつさせようとして幕府ばくふ打倒だとう計画けいかく (元弘もとひろへん)。 足利尊氏あしかがたかうじ新田義貞にったよしさだらが呼応こおうし、 1333 ねん北条ほうじょう一族いちぞく鎌倉かまくら自刃じじん鎌倉幕府かまくらばくふ滅亡めつぼう

建武の新政けんむのしんせい (1333-36 ねん)

後醍醐天皇ごだいごてんのう公家くげ一統いっとう親政しんせいはじめましたが、 武士ぶし不満ふまんまねき、 足利尊氏あしかがたかうじ離反りはん。 1336 ねん後醍醐ごだいご吉野よしののがれ、 南北朝時代なんぼくちょうじだいへ。

諸説しょせつ注意ちゅうい:建武の新政けんむのしんせい」 の評価ひょうか歴史観れきしかんによりことなります。 せんぜん皇国史観こうこくしかんは 「天皇てんのう親政しんせい理想りそう」 として称賛しょうさんしましたが、 戦後せんご歴史学れきしがくは 「時代じだい錯誤さくご公家くげ偏重へんちょう失敗しっぱいすべくして失敗しっぱい」 と評価ひょうかする傾向けいこうがあります。

5. 室町むろまち幕府ばくふ南北なんぼくあさ

南北朝時代なんぼくちょうじだい (1336-1392)

後醍醐天皇ごだいごてんのう南朝なんちょう (吉野よしの) と、 足利尊氏あしかがたかうじ擁立ようりつした 北朝ほくちょう (京都きょうと) が対立たいりつし、 やく 60 ねん並立へいりつしました。

諸説しょせつ注意ちゅうい:南北朝なんぼくちょう正閏せいじゅん論争ろんそう」 — どちらが正統せいとうかは江戸えど後期こうきから論争ろんそうがあり、 戦前せんぜん南朝なんちょう正統せいとうせつ (皇国史観こうこくしかん) と、 公家くげ政権せいけん実態じったいからの議論ぎろんがあります。 現在げんざいは 「両朝りょうちょう並立へいりつ」 を実証じっしょう的にまなぶのが一般いっぱんてきです。

室町幕府むろまちばくふ成立せいりつ

1336 年足利尊氏あしかがたかうじ建武式目けんむしきもく制定せいてい、 1338 年征夷大将軍せいいたいしょうぐん就任しゅうにん。 1378 ねん 3 代足利義満あしかがよしみつ京都きょうと室町むろまち花の御所はなのごしょ造営ぞうえい、 ここから 「室町幕府むろまちばくふ」 「室町時代むろまちじだい」 のます。

足利義満あしかがよしみつ政治せいじ

ねん事件じけん
1378花の御所はなのごしょ造営ぞうえい
1392南北朝なんぼくちょう合一ごういつ北朝ほくちょう統一とういつ
1394太政大臣だじょうだいじん就任しゅうにん (出家しゅっけ実権じっけん)
1397金閣きんかく (鹿苑寺ろくおんじ) 造営ぞうえい
1404勘合貿易かんごうぼうえき 開始かいしみん国交こっこう

勘合貿易かんごうぼうえき

みん (1368ねん建国けんこく) は 海禁かいきん政策せいさく をとり、 正規せいき国交こっこう (= 朝貢ちょうこう貿易ぼうえき) でなければ貿易ぼうえきみとめませんでした。 足利義満あしかがよしみつ日本にほん国王こくおう としてみん皇帝こうていから 冊封さつふうけ、 勘合符かんごうふ (割符わりふ認証にんしょう文書ぶんしょ) をもちいた勘合貿易かんごうぼうえきはじめました。

諸説しょせつ注意ちゅうい: 足利義満あしかがよしみつみん皇帝こうていから 「日本にほん国王こくおう称号しょうごう受容じゅようしたことは、 せんぜん皇国史観こうこくしかんから 国辱こくじょく批判ひはんされました。 現代げんだい歴史学れきしがく実利じつり外交がいこう (貿易ぼうえき利益りえき) として評価ひょうかする傾向けいこうがあります。

守護しゅごから守護大名しゅごだいみょう

南北朝なんぼくちょう守護しゅご権限けんげん拡大かくだいし、 半済令はんせいれい (年貢ねんぐ半分はんぶん取得しゅとくけん) や 守護請しゅごうけ (国衙領こくがりょう一括いっかつ請負うけおい) をて、 くに支配しはいする 守護大名しゅごだいみょう成長せいちょうしました。

6. 北山きたやま文化ぶんか東山ひがしやま文化ぶんか

北山文化きたやまぶんか (足利義満あしかがよしみつ)

金色にかがやく金閣(鹿苑寺)と池に映る姿
金閣きんかく(鹿苑寺ろくおんじ)。足利義満あしかがよしみつ造営ぞうえいした 北山文化きたやまぶんか代表だいひょう建築けんちく公家くげ寝殿造しんでんづくり禅宗ぜんしゅうさま折衷せっちゅうする。
分野ぶんや代表だいひょう
建築けんちく金閣きんかく (鹿苑寺ろくおんじ) — 公家くげ寝殿造しんでんづくり + 禅宗ぜんしゅうよう折衷せっちゅう
のう観阿弥かんあみ世阿弥ぜあみ 親子おやこ義満よしみつ庇護ひご、 「風姿花伝ふうしはなでん
絵画かいが水墨画すいぼくが流入りゅうにゅう
文学ぶんがく五山文学ごさんぶんがく (禅僧ぜんそう漢詩かんし)

東山文化ひがしやまぶんか (足利義政あしかがよしまさ)

分野ぶんや代表だいひょう
建築けんちく銀閣ぎんかく (慈照寺じしょうじ)・書院造しょいんづくり (現代げんだい和室わしつ原型げんけい)
絵画かいが雪舟せっしゅう水墨画すいぼくが (「四季山水図しきさんすいず」)
茶の湯ちゃのゆ村田珠光むらたじゅこうわび茶わびちゃ
庭園ていえん枯山水かれさんすい (龍安寺りゅうあんじ石庭せきてい大徳寺だいとくじ大仙院だいせんいん)
生け花いけばな池坊専慶いけのぼうせんけい
連歌れんが宗祇そうぎ

大事だいじ: 書院造しょいんづくりわび茶わびちゃ枯山水かれさんすい生け花いけばななど、 現代げんだい日本にほんらしさ」 とされるおおくの文化ぶんか要素ようそが、 東山文化ひがしやまぶんか起源きげんちます。 公家くげ武家ぶけ禅宗ぜんしゅう融合ゆうごうし、 ぜん簡素かんそ幽玄ゆうげんよし意識いしき基調きちょうとなりました。

7. 応仁おうにんらん下剋上げこくじょう

応仁の乱おうにんのらん (1467-1477)

8 代将軍しょうぐん 足利義政あしかがよしまさ後継こうけい争いあらそい (実子じっし義尚よしひさ vs おとうと義視よしみ) を契機けいきに、 守護大名しゅごだいみょう細川勝元ほそかわかつもと (ひがしぐん) と 山名宗全やまなそうぜん (西にしぐん) が対立たいりつ京都きょうと戦場せんじょうに 11 ねんたたかいました。

  • 京都きょうと市街しがい焦土しょうど公家くげ僧侶そうりょ地方ちほう避難ひなん (= 文化ぶんか地方ちほう拡散かくさん)
  • 幕府ばくふ権威けんい失墜しっつい
  • 守護大名しゅごだいみょう在京ざいきょうちゅう領国りょうごく家臣かしん実権じっけん奪取だっしゅ = 下剋上げこくじょう始まりはじまり

戦国時代せんごくじだい

応仁の乱おうにんのらん後、 守護代しゅごだい国人くにびと守護大名しゅごだいみょうたおし、 みずか戦国大名せんごくだいみょう となる 下剋上げこくじょう全国ぜんこくきました。 ここから 戦国時代せんごくじだいはじまります (諸説しょせつあり、 応仁の乱おうにんのらん勃発ぼっぱつ (1467) または終結しゅうけつ (1477) を起点きてんとする)。

惣村そうそん一揆いっき

室町むろまち後期こうきには、 むら惣村そうそん として自治じちつよめ、 年貢ねんぐ減免げんめん徳政とくせいもとめて一揆いっきこしました。

一揆いっき内容ないよう
正長の土一揆せいちょうのどいっき (1428)近江おうみ馬借ばしゃく蜂起ほうき徳政とくせい要求ようきゅう
嘉吉の徳政一揆かきつのとくせいいっき (1441)嘉吉の乱かきつのらん後の徳政令とくせいれい獲得かくとく
山城の国一揆やましろのくにいっき (1485-93)国人くにびと惣村そうそん守護しゅご追放ついほう・8 ねん自治じち
加賀の一向一揆かがのいっこういっき (1488-1580)浄土真宗じょうどしんしゅう門徒もんとやく 100 ねん加賀かが支配しはい

8. ふりかえり

このしょうまなんだことをかくにんしましょう。

  • [ ]源頼朝みなもとのよりとも侍所さむらいどころ政所まんどころ問注所もんちゅうじょ守護しゅご地頭じとう幕府ばくふ組織そしきせつめいできる
  • [ ]鎌倉幕府かまくらばくふ成立せいりつ論争ろんそう (1180/1183/1185/1190/1192) をっている
  • [ ]御恩ごおん奉公ほうこう一所懸命いっしょけんめい武家ぶけ政権せいけん仕組しくみをえる
  • [ ]北条氏ほうじょうし執権政治しっけんせいじ承久の乱じょうきゅうのらん (1221)・御成敗式目ごせいばいしきもく (1232) をせつめいできる
  • [ ]元寇げんこう (文永ぶんえい 1274・弘安こうあん 1281) とその影響えいきょう (御家人ごけにん窮乏きゅうぼう徳政令とくせいれい) をえる
  • [ ]鎌倉かまくら新仏教しんぶっきょう 6 (法然ほうねん親鸞しんらん一遍いっぺん日蓮にちれん栄西えいさい道元どうげん) をっている
  • [ ]親鸞しんらん悪人正機あくにんしょうき など新仏教しんぶっきょう革新性かくしんせいえる
  • [ ]鎌倉かまくら文化ぶんか (新古今和歌集しんこきんわかしゅう平家物語へいけものがたり運慶うんけい金剛力士像こんごうりきしぞう) をっている
  • [ ]鎌倉幕府かまくらばくふ滅亡めつぼう (1333)・建武の新政けんむのしんせい南北朝なんぼくちょう並立へいりつせつめいできる
  • [ ]足利義満あしかがよしみつ南北朝なんぼくちょう合一ごういつ (1392)・勘合貿易かんごうぼうえき (1404)・日本国王にっぽんこくおう称号しょうごうせつめいできる
  • [ ]守護しゅごから守護大名しゅごだいみょうへ (半済令はんせいれい守護請しゅごうけ) をえる
  • [ ]北山文化きたやまぶんか (金閣きんかくのう)・東山文化ひがしやまぶんか (銀閣ぎんかく書院造しょいんづくりわび茶わびちゃ水墨画すいぼくが) をっている
  • [ ]応仁の乱おうにんのらん (1467-77)・下剋上げこくじょう惣村そうそん国一揆くにいっき一向一揆いっこういっきせつめいできる

このしょう安全あんぜん配慮はいりょ (しろ古戦場こせんじょうマナーと文化財ぶんかざい保護ほご)

鎌倉かまくら室町時代むろまちじだい学習がくしゅうでは、 つぎのことをかならまもりましょう。

  • しろ城跡じょうせき見学けんがく では、 復元ふくげん建物たてもの石垣いしがき落書きらくがきやいたずらをしない (文化財保護法ぶんかざいほごほう違反いはん罰則ばっそくあり)。 ロープやしがらみ内側うちがわはいらない
  • 古戦場こせんじょう (壇ノ浦だんのうら博多はかたわん防塁ぼうるい湊川みなとがわとう) は 戦没者せんぼつしゃ供養くよう であり、 しずかにおとずれ、 さわがない
  • 寺院じいん神社じんじゃ見学けんがく では、 本堂ほんどう仏像ぶつぞうまえしずかに。 フラッシュ撮影さつえい禁止きんし撮影さつえい禁止きんしエリアをかならまも
  • 国宝こくほう仏像ぶつぞう絵画かいがしょ茶器ちゃき には直接ちょくせつれない (皮脂ひし湿気しっけ文化財ぶんかざいいためる)
  • 元寇げんこうかんして、 せんぜん皇国史観こうこくしかんが 「神風かみかぜくにすくった」 と強調きょうちょうした歴史れきしがあるが、 現在げんざい実証じっしょうてき防塁ぼうるいげんがわ事情じじょう暴風雨ぼうふううなどふくすう要因よういんまな
  • 歴史れきしじょう英雄えいゆう (源義経みなもとのよしつね楠木正成くすのきまさしげとう) を美化びか英雄化えいゆうかする物語ものがたりおおいが、 「一次史料いちじしりょう後世こうせい伝承でんしょう区別くべつ」 を基本きほんとする

しょう: だい 6 しょうでは、 戦国時代せんごくじだい安土桃山時代あづちももやまじだいまなびます。 戦国大名せんごくだいみょう鉄砲てっぽう伝来でんらいキリスト教きりすときょう伝来でんらい織田信長おだのぶなが豊臣秀吉とよとみひでよし太閤検地たいこうけんち刀狩かたながり朝鮮出兵ちょうせんしゅっぺい桃山文化ももやまぶんかまで、 中世ちゅうせいから近世きんせいへの転換てんかんまなびます。

まとめ — 鎌倉かまくら室町むろまち時代じだいを 3 くだり

  • 源頼朝みなもとのよりとも鎌倉かまくら幕府ばくふひらき、 北条氏ほうじょうし執権政治しっけんせいじ御成敗式目ごせいばいしきもく (1232) で武家ぶけ政治せいじ確立かくりつした
  • 鎌倉かまくら後期こうき元寇げんこうて、 建武の新政けんむのしんせいのあと室町幕府むろまちばくふひらかれ北山ほくざん東山ひがしやま文化ぶんかさかえる
  • 応仁の乱おうにんのらん (1467-77) を中央ちゅうおう統制とうせいゆる惣村そうそん一向一揆いっこういっきなど民衆みんしゅううごきがつよまり戦国せんごくへと移行いこう
この教材きょうざいやくちましたか?
がくしゅうロードマップ(10けん
  1. 1日本にほん探究たんきゅう入門にゅうもん (歴史れきしてき思考しこう史料しりょう)
  2. 2原始時代げんしじだい (きゅう石器せっき縄文じょうもん弥生やよい)
  3. 3古墳こふん飛鳥あすか時代じだい (古代こだい国家こっか成立せいりつ)
  4. 4奈良なら平安へいあん時代じだい (律令りつりょう国家こっか発展はってん変容へんよう)
  5. 5鎌倉かまくら室町むろまち時代じだい (中世ちゅうせい武家ぶけ政権せいけん)
  6. 6戦国せんごく安土あづち桃山ももやま時代じだい (中世ちゅうせいまつから近世きんせいへ)
  7. 7江戸えど時代じだい (近世きんせい社会しゃかい確立かくりつ)
  8. 8幕末ばくまつ明治維新めいじいしん (近代きんだい出発しゅっぱつ、 1853-1889)
  9. 9明治めいじ後期こうき大正たいしょう昭和しょうわ前期ぜんき (帝国ていこく主義しゅぎ戦争せんそう、 1890-1945)
  10. 10戦後せんご日本にほん (現代げんだい、 1945- )