この章で学ぶこと
第 8 章では、 明治時代 (1868-1912) の 45 年間で日本が近代国家になり、 日清戦争・日露戦争 に勝利したところまで学びました。
第 9 章では、 1912 年の 大正改元 から 1945 年の終戦までの 33 年間を学びます。 この時期は 「光」 と 「影」 が激しく交錯した時代 です。
光の側面: 第一次世界大戦 の好景気で経済が成長し、 大正デモクラシー の風潮の中で 普通選挙法 (1925) が成立し、 25 歳以上の男子全員が投票できるようになりました。 ラジオ放送 が始まり、 文化や教育も広く普及しました。
影の側面: 1923 年の 関東大震災、 1929 年からの 世界恐慌 が日本を襲い、 1931 年の 満州事変 から日本は本格的な戦争の道に進みます。 1941 年の 太平洋戦争開戦から 1945 年の終戦まで、 日本は約 310 万人の命を失い、 多くのアジアの人々にも犠牲を強いました。
この章では、 戦争の経過を客観的に学びつつ、 「なぜ戦争に至ったのか」 「戦争の教訓は何か」 を考えていきます。
- 第一次世界大戦 での日本の役割と影響を整理する
- 大正デモクラシー の意味と 普通選挙法 ・ 治安維持法 を理解する
- 世界恐慌 と日本の 昭和恐慌 の関係を学ぶ
- 満州事変 から 日中戦争 への流れを整理する
- 太平洋戦争 の経過と終戦の状況を学ぶ
- 戦争の教訓 と 平和の大切さ を考える
学習のポイント: 第 9 章は中学歴史の中で最も重い内容です。 戦争を客観的な事実として学ぶと同時に、 「二度と繰り返さない」 ためにどう考え行動するかを学ぶ章です。 数字や年号だけでなく、 当時の人々の生活や苦しみにも想像力を働かせましょう。
1. 大正時代と第一次世界大戦
大正政変 (1912-1913)
1912 年に明治天皇が亡くなり、 大正天皇 が即位して大正時代が始まりました。 同年末、 陸軍が要求した師団増設をめぐる対立から内閣が倒れ、 翌 1913 年、 民衆の運動で 第三次桂太郎内閣 が崩壊しました。 これを 大正政変 または 第一次護憲運動 と呼びます。 「閥族打破・憲政擁護」 をスローガンに、 民衆の力で内閣を倒した初めての出来事です。
第一次世界大戦 (1914-1918)
1914 年 6 月、 サラエボ事件 (オーストリア皇太子が セルビア人に暗殺された事件) をきっかけに、 ヨーロッパで 第一次世界大戦 が勃発しました。
| 連合国側 (協商国) | 同盟国側 |
|---|
| イギリス・フランス・ロシア・ (のち) アメリカ・日本 | ドイツ・オーストリア・オスマン帝国 |
日本は 日英同盟 を理由に連合国側で参戦し、 ドイツが中国に持っていた 青島 を占領しました。 戦争は 4 年以上続き、 約 1000 万人の戦死者を出しました。 機関銃・戦車・毒ガス・航空機 などの新兵器が初めて大規模に使われ、 戦争の概念が変わった戦いです。
二十一カ条の要求 (1915)
1915 年、 日本は中国の 袁世凱 政府に 二十一カ条の要求 を突きつけました。 ドイツが持っていた山東省の権益を日本が引き継ぐこと、 南満州での権益を強化することなどを認めさせるものです。 中国国民の激しい反発を招き、 のちの 1919 年五・四運動 という大規模な反日運動につながりました。
大戦景気
第一次世界大戦中、 日本はヨーロッパが手薄になった中国・アジア市場に輸出を拡大し、 大きな好景気 (大戦景気) を迎えました。
- 輸出が急増、 日本は債務国から 債権国 に変わる
- 造船業・海運業 が発展、 「船成金」 が登場
- 繊維工業 に加え 重化学工業 が大きく成長
- 1918 年、 米価高騰により全国で 米騒動 が起こる
- 工業生産額が初めて農業生産額を上回る
2. 第一次世界大戦後の世界と日本
パリ講和会議とベルサイユ条約
1919 年、 パリで講和会議が開かれ、 6 月に ベルサイユ条約 が結ばれました。 日本も戦勝国として参加し、 山東省のドイツ権益を引き継ぎました。
国際連盟の成立 (1920)
アメリカ大統領 ウィルソン の提唱で、 1920 年に 国際連盟 が設立されました。 国際紛争を平和的に解決するための初の国際組織で、 本部はスイスの ジュネーブ。 日本は 新渡戸稲造 が事務次長を務め、 常任理事国の一つになりました。 ただし、 提唱国の アメリカ は議会の反対で加盟しませんでした。
ワシントン会議 (1921-1922)
東アジア・太平洋の秩序を決めるため、 1921 年から 1922 年にかけて ワシントン会議 が開かれました。
| 条約 | 内容 |
|---|
| **[[四カ国条約 | よんかこくじょうやく]]** |
| **[[九カ国条約 | きゅうかこくじょうやく]]** |
| **[[海軍軍縮条約 | かいぐんぐんしゅくじょうやく]]** |
民族自決と独立運動
ウィルソン が掲げた 民族自決 の原則 (各民族が自分たちのことは自分たちで決める) は、 アジア・アフリカの植民地で大きな反響を呼びました。
- 朝鮮: 1919 年 3 月、 日本支配からの独立を求める 三・一独立運動 が起こる
- 中国: 1919 年 5 月、 二十一カ条の要求 と山東権益への反発から 五・四運動 が広がる
- インド: ガンディー による 非暴力・不服従運動
3. 大正デモクラシーと社会運動
大正デモクラシーの思想
第一次世界大戦後、 世界的に 民主主義 と 平和主義 が広がりました。 日本でもこの流れを受けて、 政治の民主化を求める 大正デモクラシー の風潮が高まります。
- 吉野作造 の 民本主義: 主権は天皇にあっても、 政治は民衆の意向に基づくべき。 天皇主権を否定せずに民主政治を実現する理論
- 美濃部達吉 の 天皇機関説: 天皇は国家の最高機関であり、 法に従って統治する立憲君主と捉える
政党内閣の誕生
1918 年、 米騒動 で内閣が倒れた後、 立憲政友会総裁原敬 が首相に就任しました。 平民出身で爵位を持たない初の首相であり、 「平民宰相」 と呼ばれました。 これは 本格的な政党内閣 の始まりです。
普通選挙法と治安維持法 (1925)
大正デモクラシー の運動の結果、 1925 年に画期的な 2 つの法律が成立しました。
| 法律 | 内容 |
|---|
| 普通選挙法 | 25 歳以上のすべての男子に選挙権を与える (納税要件撤廃)。 有権者数が約 4 倍に |
| 治安維持法 | 「国体」 (天皇主権の体制) を変えようとする運動、 私有財産制度を否定する運動を取り締まる |
大事: 普通選挙法 は民主主義の前進ですが、 同時に 治安維持法 が成立したことに注意しましょう。 これは 共産主義 や 社会主義運動への対策でしたが、 のちに思想統制の道具として広く使われ、 自由な言論を圧殺する原因となりました。 「光」 と 「影」 が同時に成立したのが 1925 年です。
なお、 女性の選挙権は実現せず、 これは 1945 年の終戦後まで待つことになります。
社会運動と労働運動
- 労働運動: 日本労働総同盟 が組織され、 ストライキが各地で起こる
- 農民運動: 日本農民組合 が組織され、 小作争議 が急増
- 女性運動: 平塚らいてう が雑誌 「青鞜」 を創刊 (1911)、 1920 年に 新婦人協会結成
- 部落解放運動: 1922 年、 全国水平社 結成
- 共産主義運動: 1922 年、 日本共産党結成 (非合法)
大衆文化の発達
大正後半から昭和初期にかけて、 都市部を中心に 大衆文化 が花開きました。
| 分野 | 内容 |
|---|
| 新聞・雑誌 | 「キング」 などの大衆雑誌が 100 万部超 |
| ラジオ放送 | 1925 年に開始 (東京・大阪・名古屋) |
| 映画 | 無声映画から トーキー (有声映画) へ |
| 生活 | 「モボ・モガ」 (モダンボーイ・モダンガール) と呼ばれる若者が登場 |
| 文学 | 芥川龍之介 (「羅生門」)、 志賀直哉、 白樺派 |
| 教育 | [[全国水平社宣言 |
関東大震災 (1923 年 9 月 1 日)
1923 年 9 月 1 日午前 11 時 58 分、 関東地方 を巨大地震が襲いました。 マグニチュード 7.9。 死者・行方不明者は約 10 万 5 千人。 東京・横浜は壊滅的な被害を受け、 大火災で焼け野原になりました。 この日にちなみ、 9 月 1 日は現在 「防災の日」 に定められています。
大事: 震災の混乱の中、 「朝鮮人が井戸に毒を入れた」 などのデマが広がり、 多くの 朝鮮人 や 中国人、 社会主義者らが住民や軍・警察によって殺害される 痛ましい事件 が起こりました。 災害時のデマや差別がいかに恐ろしい結果を招くかの教訓として、 現代に伝えられています。
4. 世界恐慌と昭和恐慌
昭和の始まり
1926 年に 大正天皇 が崩御し、 昭和天皇 が即位。 元号が 昭和 に変わりました。
世界恐慌 (1929)
1929 年 10 月、 アメリカ・ニューヨーク の ウォール街 で株価が大暴落しました (暗黒の木曜日)。 これをきっかけに世界中に 世界恐慌 が広がります。
各国の対応:
| 国 | 対応 |
|---|
| アメリカ | ルーズベルト大統領の **[[ニューディール政策 |
| イギリス・フランス | **[[ブロック経済 |
| ドイツ | ヒトラー率いる ナチス が政権を取り、 軍備拡張で景気回復をめざす |
| ソ連 | **[[五カ年計画 |
| 日本 | [[満州 |
日本の昭和恐慌
日本では、 関東大震災 の後遺症や、 1927 年の 金融恐慌 (銀行倒産が連鎖) があり、 そこに 世界恐慌 が重なって深刻な不況になりました。 これを 昭和恐慌 と呼びます。
- 都市の失業者が急増 (「大学は出たけれど」)
- 農村では 繭 (生糸の原料) の価格暴落で養蚕農家が破綻
- 東北地方では 娘の身売り が社会問題に
- 小作争議 や 労働争議 が激化
このような社会不安の中、 政府への不信感が高まり、 軍部が 「中国・満州に進出して打開しよう」 という考えを強めていきます。
5. 満州事変と日中戦争
満州事変 (1931)
1931 年 9 月 18 日、 満州 (中国東北部) の 柳条湖 付近で、 日本が経営する 南満州鉄道 の線路が爆破される事件が起こりました (柳条湖事件)。 これは日本の 関東軍 (満州に駐留していた日本陸軍部隊) が、 中国軍の仕業に見せかけて自ら起こした事件でした。
関東軍はこれを口実に軍事行動を開始し、 約半年で満州全土を占領しました。 これを 満州事変 と言います。
満州国の建国 (1932)
1932 年 3 月、 日本は満州に 満州国 を建国させ、 清 の最後の皇帝だった 溥儀 を 「執政」 (のちに皇帝) に据えました。 形式上は独立国ですが、 実態は日本が支配する 傀儡国家かいらいこっか でした。
リットン調査団と国際連盟脱退
中国の訴えを受けて、 国際連盟は リットン調査団 を派遣し調査しました。 1933 年、 連盟総会は 「満州は中国の領土である」 「日本軍は撤退すべき」 とする報告書を採択。 これに反発した日本は、 同年 3 月に 国際連盟脱退 を通告しました。 日本の代表は 松岡洋右 でした。
大事: 国際連盟脱退 は、 日本が 国際社会から孤立 していく決定的な転換点でした。 この後、 日本は ドイツ・イタリア と接近し、 やがて第二次世界大戦に進んでいきます。
軍部の台頭と政党政治の崩壊
恐慌で民衆が苦しみ、 既存政党が無力に見える中、 「強い指導者で社会を立て直すべき」 という風潮が高まりました。 軍部の青年将校や右翼が、 暴力で政治を変えようとするテロ事件が相次ぎます。
| 事件 | 年月 | 内容 |
|---|
| 五・一五事件 | 1932 年 5 月 15 日 | 海軍青年将校らが首相犬養毅 を暗殺。 「[[話せばわかる |
| 二・二六事件 | 1936 年 2 月 26 日 | 陸軍青年将校約 1400 名が首相官邸などを襲撃。 高橋是清蔵相らを殺害 |
五・一五事件 で本格的な 政党内閣 は終わり、 軍人や官僚出身の首相が続くようになりました。 議会の力は弱まり、 軍部の発言力が強まります。
日中戦争 (1937-1945)
1937 年 7 月 7 日、 北京郊外の 盧溝橋 で日中両軍が衝突する事件 (盧溝橋事件) が起こりました。 これがきっかけで戦線が拡大し、 全面的な 日中戦争 が始まります。
| 主な戦闘 | 年月 |
|---|
| [[盧溝橋事件 | ろこうきょうじけん]] |
| 上海上陸 | 1937 年 8 月 |
| **[[南京 | なんきん]]占領** |
| [[武漢 | ぶかん]]占領 |
| 重慶爆撃 | 1938 年 12 月以降 |
南京占領時には、 日本軍による多数の中国人民間人・捕虜への殺害・略奪が起こり (南京事件)、 戦後の国際社会で大きく問題になりました。 犠牲者の数については諸説あり、 歴史研究の課題となっています。
大事: 日中戦争は日本軍の予想に反して長期化しました。 中国国民は 国民党 (蔣介石) と 共産党 (毛沢東) が 国共合作 で団結して抵抗を続けたためです。 1945 年の日本敗戦まで戦闘は続き、 中国民間人を含む膨大な犠牲を生みました。
国家総動員体制
戦争が長引くにつれ、 日本国内は 戦時体制 に変わっていきます。
| 政策 | 内容 |
|---|
| 国家総動員法 (1938) | 戦争のために、 政府が国民・物資を自由に動員できるとする法律 |
| 大政翼賛会 (1940) | 政党をすべて解散させ、 一つの組織にまとめる |
| 隣組 | 5-10 軒で組織し、 相互監視・配給・防空訓練を行う |
| 配給制 | 米・砂糖・衣料品など生活必需品の購入を制限 |
| 学徒勤労動員 | 中学生以上を工場・農村で働かせる |
| **[[言論統制 | げんろんとうせい]]** |
6. 第二次世界大戦と太平洋戦争
第二次世界大戦の開始 (1939)
1939 年 9 月 1 日、 ドイツ が ポーランド に侵攻し、 第二次世界大戦 が始まりました。 同月、 イギリス と フランス がドイツに宣戦布告。
1940 年 9 月、 日本・ドイツ・イタリア が 日独伊三国同盟 を結びました。 1941 年 4 月には 日ソ中立条約 も結んでいます。
日米関係の悪化
日本の中国進出に反対する アメリカ は、 1941 年 7 月、 在米日本資産の凍結、 8 月には 石油の対日全面禁輸 を実施しました。 アメリカ・イギリス・中国・オランダの 「ABCD 包囲網」 と呼ばれる経済封鎖です。
日本は石油の 8 割をアメリカからの輸入に頼っていたため、 これは大打撃でした。 日米交渉が続けられましたが、 東条英機内閣 (1941 年 10 月発足) は最終的に開戦を決断します。
真珠湾攻撃と太平洋戦争 (1941-1945)
1941 年 12 月 8 日、 日本海軍機動部隊がハワイの 真珠湾 にあるアメリカ太平洋艦隊を奇襲攻撃し、 同時にイギリス領マレー半島 に上陸しました。 これが 太平洋戦争 の開戦です (第二次世界大戦 のアジア戦線とも呼ぶ)。
戦争の経過
| 時期 | 主な動き |
|---|
| 1941-1942 年前半 | 日本軍が東南アジア・太平洋を席巻 (シンガポール・フィリピン・インドネシア などを占領) |
| 1942 年 6 月 | **[[ミッドウェー海戦 |
| 1942-1943 年 | [[ガダルカナル島 |
| 1944 年 | [[サイパン島 |
| 1944 年 11 月- | B-29 による 本土空襲 が本格化 |
| 1945 年 3 月 10 日 | **[[東京大空襲 |
| 1945 年 4-6 月 | 沖縄戦 — 民間人約 9 万 4 千人を含む約 20 万人が死亡 |
戦争中の日本人と植民地の人々
- 本土の市民: 度重なる空襲。 学童疎開 で子供たちが地方に避難
- 植民地・占領地の人々: 朝鮮では 創氏改名 (日本式の姓名に変える)、 強制的な労務動員、 「従軍慰安婦」 として動員された女性も
- 強制連行: 朝鮮・中国から多くの人々が炭鉱や工場で働かされた
- 空襲・艦砲射撃: 全国の都市が攻撃を受け、 一般市民が犠牲に
大事: 戦争では兵士だけでなく、 非戦闘員 (民間人) の犠牲 が極めて多かったことを忘れてはいけません。 日本側だけで戦没者は約 310 万人 (うち民間人約 80 万人)、 中国・東南アジアの人々を含めれば 2000 万人以上の命が失われたとされます。
7. 終戦への道
ポツダム宣言
1945 年 7 月、 ドイツ が降伏したあと、 ドイツの ポツダム で アメリカ (トルーマン)・イギリス (チャーチル、 のちアトリー)・中国 (蔣介石) が ポツダム宣言 を発表しました。 日本に 無条件降伏 を求める内容です (のちにソ連も参加)。
日本政府は当初、 これを 「黙殺」 すると発表しました (これが外国で 「拒否」 と訳されたことが事態を悪化させたという見方もあります)。
原爆投下とソ連参戦
- 1945 年 8 月 6 日午前 8 時 15 分: アメリカ軍が 広島 に世界初の 原子爆弾 を投下。 約 14 万人が同年内に死亡
- 1945 年 8 月 9 日午前 11 時 2 分: 長崎 に 2 発目の原子爆弾。 約 7 万 4 千人が同年内に死亡
- 1945 年 8 月 8 日: ソ連 が 日ソ中立条約 を破棄して対日参戦、 翌 9 日に満州・樺太・千島へ進撃
玉音放送と終戦
1945 年 8 月 14 日、 日本政府は ポツダム宣言 の受諾を決定しました。 8 月 15 日正午、 昭和天皇 による 玉音放送 がラジオで放送され、 日本の降伏が国民に伝えられました。 これが 終戦の日 です。
9 月 2 日、 東京湾のアメリカ戦艦ミズーリ号上で 降伏文書 に調印しました。
戦争の数字
| 項目 | 数字 |
|---|
| 日本人戦没者 | 約 310 万人 (うち民間人約 80 万人) |
| 広島原爆死者 (1945 年内) | 約 14 万人 |
| 長崎原爆死者 (1945 年内) | 約 7 万 4 千人 |
| 東京大空襲死者 (1 晩) | 約 10 万人 |
| 沖縄戦死者 | 約 20 万人 (うち民間人約 9 万 4 千人) |
| 中国の死者 (戦争全期間) | 諸説あるが約 1000 万人以上 |
| 第二次大戦全世界の死者 | 約 5000-8000 万人 |
8. 戦争の教訓と平和への思い
この章のまとめ
| 年 | できごと |
|---|
| 1912 | 大正改元、 [[大正政変 |
| 1914-1918 | **[[第一次世界大戦 |
| 1915 | [[二十一カ条の要求 |
| 1918 | [[米騒動 |
| 1919 | [[三・一独立運動 |
| 1920 | [[国際連盟 |
| 1923 | **[[関東大震災 |
| 1925 | **[[普通選挙法 |
| 1929 | [[世界恐慌 |
| 1931 | **[[満州事変 |
| 1932 | [[満州国 |
| 1933 | **[[国際連盟脱退 |
| 1936 | [[二・二六事件 |
| 1937 | **[[日中戦争 |
| 1938 | [[国家総動員法 |
| 1939 | **[[第二次世界大戦 |
| 1940 | [[日独伊三国同盟 |
| 1941 | **[[太平洋戦争 |
| 1942 | [[ミッドウェー海戦 |
| 1945 | **3 月[[東京大空襲 |
戦争の教訓を受け継ぐ
第二次世界大戦・太平洋戦争は、 日本にも、 アジアの多くの国にも、 そして世界全体に、 二度と繰り返してはならない傷を残しました。 私たちが歴史を学ぶ大切な理由は、 この教訓を未来に伝えることです。
なぜ戦争に至ったのかを考える
- 経済の苦しさ (昭和恐慌) が民衆の不満を高めた
- 軍部の独走を、 議会や報道が止められなかった
- 自由な言論を封じる 治安維持法 が、 異なる意見を消した
- 国際協調を捨てて孤立した (国際連盟脱退)
- 「強い指導者で解決できる」 という幻想が広がった
これらの 「戦争への道筋」 は、 一つひとつは普通の出来事に見えました。 だからこそ、 私たちは 「歴史 を学んで、 同じ道を二度と歩まない」 ことを意識する必要があります。
平和を伝える施設を訪れる
戦争の記憶を伝える施設が日本各地にあります。
- 広島平和記念資料館 (広島県) — 原爆ドーム (世界遺産)
- 長崎原爆資料館 (長崎県)
- ひめゆり平和祈念資料館 (沖縄県) — 沖縄戦の女子学徒隊の記録
- 沖縄県平和祈念資料館 (沖縄県糸満市)
- 昭和館 (東京) — 戦中・戦後の国民生活の資料
- 東京大空襲・戦災資料センター (東京)
訪れる時の心がけ
- 静かに見学する: 多くの遺品や写真があります。 大声で騒いだり走り回ったりしない
- 遺品や記録に敬意を払う: 一つひとつが、 誰かの命や苦しみの記録です。 撮影禁止のものは絶対に撮らない
- わからない言葉や感情を持ち帰る: 見学中にすべて理解できなくても良い。 「これは何だろう」 「どう感じればよいのか」 を持ち帰り、 大人と話し合おう
- 戦争体験者の話を聞く: 直接戦争を経験した方は年々少なくなっています。 機会があれば話を聞いて記録しよう
- 「敵」「味方」 を超えて考える: 戦争で犠牲になったのは日本人だけではありません。 中国・朝鮮・東南アジアの人々の苦しみも合わせて学びましょう
大事: 戦争を学ぶ目的は、 「日本が悪かった」 「相手が悪かった」 と単純に決めることではありません。 「なぜ戦争に至ったのか」 「どうすれば防げたのか」 「今の私たちは何を学べるのか」 を考えることが大切です。 日本国憲法 の前文には 「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し」 と書かれています。 これは戦争を経験した世代から私たちへの大切なメッセージです。
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第 10 章では、 1945 年の終戦から現在 (令和) までを学びます。 GHQ による民主化改革、 日本国憲法 の制定、 高度経済成長、 冷戦 とその終結、 阪神淡路大震災・東日本大震災 という大災害、 そして グローバル化 と 少子高齢化 の現代まで、 私たちが生きる時代がどう形成されたかを見ていきます。