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歴史

大正たいしょう・昭和しょうわ前期ぜんき (戦争せんそうと世界せかい、 1912-1945)

最終確認日:

この章しょうで学まなぶこと

第だい 8 章しょうでは、 明治時代めいじじだい (1868-1912) の 45 年間ねんかんで日本にほんが近代きんだい国家こっかになり、 日清戦争にっしんせんそう・日露戦争にちろせんそうに勝利しょうりしたところまで学まなびました。

第だい 9 章しょうでは、 1912 年ねんの大正改元たいしょうかいげんから 1945 年ねんの終戦しゅうせんまでの 33 年間ねんかんを学まなびます。 この時期じきは 「光こう」 と 「影かげ」 が激はげしく交錯こうさくした時代じだい です。

光こうの側面そくめん: 第一次世界大戦だいいちじせかいたいせんの好景気こうけいきで経済けいざいが成長せいちょうし、 大正デモクラシーたいしょうでもくらしーの風潮ふうちょうの中なかで 普通選挙法ふつうせんきょほう (1925) が成立せいりつし、 25 歳とし以上いじょうの男子だんし全員ぜんいんが投票とうひょうできるようになりました。 ラジオ放送ラジオほうそうが始はじまり、 文化ぶんかや教育きょういくも広ひろく普及ふきゅうしました。

影かげの側面そくめん: 1923 年ねんの関東大震災かんとうだいしんさい、 1929 年ねんからの世界恐慌せかいきょうこうが日本にほんを襲おそい、 1931 年ねんの満州事変まんしゅうじへんから日本にほんは本格ほんかく的てきな戦争せんそうの道みちに進すすみます。 1941 年ねんの太平洋戦争たいへいようせんそう開戦かいせんから 1945 年ねんの終戦しゅうせんまで、 日本にほんは約やく 310 万まん人にんの命いのちを失うしない、 多おおくのアジアの人々ひとびとにも犠牲ぎせいを強しいました。

この章しょうでは、 戦争せんそうの経過けいかを客観きゃっかん的てきに学まなびつつ、 「なぜ戦争せんそうに至いたったのか」 「戦争せんそうの教訓きょうくんは何なにか」 を考えかんがえていきます。

  • 第一次世界大戦だいいちじせかいたいせん での日本にほんの役割やくわりと影響えいきょうを整理せいりする
  • 大正デモクラシーたいしょうでもくらしー の意味いみと 普通選挙法ふつうせんきょほう ・ 治安維持法ちあんいじほう を理解りかいする
  • 世界恐慌せかいきょうこう と日本にほんの 昭和恐慌しょうわきょうこう の関係かんけいを学まなぶ
  • 満州事変まんしゅうじへん から 日中戦争にっちゅうせんそう への流ながれを整理せいりする
  • 太平洋戦争たいへいようせんそう の経過けいかと終戦しゅうせんの状況じょうきょうを学まなぶ
  • 戦争せんそうの教訓きょうくん と 平和へいわの大切たいせつさ を考かんがえる

学習がくしゅうのポイント: 第だい 9 章しょうは中学ちゅうがく歴史れきしの中なかで最もっとも重おもい内容ないようです。 戦争せんそうを客観きゃっかん的てきな事実じじつとして学まなぶと同時どうじに、 「二度にどと繰くり返かえさない」 ためにどう考えかんがえ行動こうどうするかを学まなぶ章しょうです。 数字すうじや年号ねんごうだけでなく、 当時とうじの人々ひとびとの生活せいかつや苦くるしみにも想像そうぞう力りょくを働はたらかせましょう。

1. 大正たいしょう時代じだいと第だい一いち次じ世界せかい大戦たいせん

大正たいしょう政変せいへん (1912-1913)

1912 年ねんに明治天皇めいじてんのうが亡なくなり、 大正天皇たいしょうてんのうが即位そくいして大正たいしょう時代じだいが始はじまりました。 同年どうねん末まつ、 陸軍りくぐんが要求ようきゅうした師団しだん増設ぞうせつをめぐる対立たいりつから内閣ないかくが倒たおれ、 翌よく 1913 年ねん、 民衆みんしゅうの運動うんどうで第三次桂太郎内閣だいさんじかつらたろうないかくが崩壊ほうかいしました。 これを 大正政変たいしょうせいへん または 第一次護憲運動だいいちじごけんうんどう と呼よびます。 「閥族打破ばつぞくだは・憲政擁護けんせいようご」 をスローガンに、 民衆みんしゅうの力ちからで内閣ないかくを倒たおした初はじめての出来事できごとです。

第だい一いち次じ世界せかい大戦たいせん (1914-1918)

1914 年ねん 6 月つき、 サラエボ事件さらえぼじけん (オーストリア皇太子こうたいしがセルビア人じんに暗殺あんさつされた事件じけん) をきっかけに、 ヨーロッパで 第一次世界大戦だいいちじせかいたいせん が勃発ぼっぱつしました。

連合れんごう国こく側がわ (協商きょうしょう国こく)同盟どうめい国こく側がわ
イギリス・フランス・ロシア・ (のち) アメリカ・日本にほんドイツ・オーストリア・オスマン帝国ていこく

日本にほんは日英同盟にちえいどうめいを理由りゆうに連合れんごう国こく側がわで参戦さんせんし、 ドイツが中国ちゅうごくに持もっていた青島チンタオを占領せんりょうしました。 戦争せんそうは 4 年ねん以上いじょう続つづき、 約やく 1000 万まん人にんの戦死せんし者しゃを出だしました。 機関銃きかんじゅう・戦車せんしゃ・毒ガスどくがす・航空機こうくうきなどの新しん兵器へいきが初はじめて大だい規模きぼに使つかわれ、 戦争せんそうの概念がいねんが変かわった戦たたかいです。

二に十じゅう一いちカ条じょうの要求ようきゅう (1915)

1915 年ねん、 日本にほんは中国ちゅうごくの 袁世凱えんせいがい 政府せいふに 二十一カ条の要求にじゅういっかじょうのようきゅう を突つきつけました。 ドイツが持もっていた山東さんとう省しょうの権益けんえきを日本にほんが引ひき継つぐこと、 南みなみ満州まんしゅうでの権益けんえきを強化きょうかすることなどを認みとめさせるものです。 中国ちゅうごく国民こくみんの激はげしい反発はんぱつを招まねき、 のちの 1919 年五・四運動ごしうんどうという大だい規模きぼな反日はんにち運動うんどうにつながりました。

大戦たいせん景気けいき

第だい一いち次じ世界せかい大戦たいせん中ちゅう、 日本にほんはヨーロッパが手薄てうすになった中国ちゅうごく・アジア市場しじょうに輸出ゆしゅつを拡大かくだいし、 大おおきな好景気こうけいき (大戦景気たいせんけいき) を迎むかえました。

  • 輸出ゆしゅつが急増きゅうぞう、 日本にほんは債務さいむ国こくから 債権さいけん国こく に変かわる
  • 造船業ぞうせんぎょう・海運業かいうんぎょうが発展はってん、 「船成金ふななりきん」 が登場とうじょう
  • 繊維工業せんいこうぎょうに加くわえ重化学工業じゅうかがくこうぎょうが大おおきく成長せいちょう
  • 1918 年ねん、 米価べいか高騰こうとうにより全国ぜんこくで 米騒動こめそうどう が起おこる
  • 工業こうぎょう生産せいさん額がくが初はじめて農業のうぎょう生産せいさん額がくを上回うわまわる

2. 第だい一いち次じ世界せかい大戦たいせん後ごの世界せかいと日本にほん

パリ講和こうわ会議かいぎとベルサイユ条約じょうやく

1919 年ねん、 パリで講和こうわ会議かいぎが開ひらかれ、 6 月つきに ベルサイユ条約べるさいゆじょうやく が結むすばれました。 日本にほんも戦勝せんしょう国こくとして参加さんかし、 山東さんとう省しょうのドイツ権益けんえきを引ひき継つぎました。

国際こくさい連盟れんめいの成立せいりつ (1920)

アメリカ大統領だいとうりょう ウィルソンうぃるそん の提唱ていしょうで、 1920 年ねんに 国際連盟こくさいれんめい が設立せつりつされました。 国際こくさい紛争ふんそうを平和へいわ的てきに解決かいけつするための初はつの国際こくさい組織そしきで、 本部ほんぶはスイスのジュネーブ。 日本にほんは新渡戸稲造にとべいなぞうが事務じむ次長じちょうを務つとめ、 常任じょうにん理事りじ国こくの一ひとつになりました。 ただし、 提唱ていしょう国こくのアメリカは議会ぎかいの反対はんたいで加盟かめいしませんでした。

ワシントン会議かいぎ (1921-1922)

東ひがしアジア・太平洋たいへいようの秩序ちつじょを決きめるため、 1921 年ねんから 1922 年ねんにかけて ワシントン会議ワシントンかいぎ が開ひらかれました。

条約じょうやく内容ないよう
四カ国条約よんかこくじょうやく太平洋たいへいようの現状げんじょう維持いじ、 日英同盟にちえいどうめい終了しゅうりょう
九カ国条約きゅうかこくじょうやく中国ちゅうごくの主権しゅけん尊重そんちょうと門戸もんこ開放かいほう。 日本にほんは山東さんとう省しょうの権益けんえきを中国ちゅうごくに返還へんかん
海軍軍縮条約かいぐんぐんしゅくじょうやく主力しゅりょく艦かんの保有ほゆう比率ひりつを米べい:英えい:日び:仏ふつ:伊い = 5:5:3:1.67:1.67 に制限せいげん

民族みんぞく自決じけつと独立どくりつ運動うんどう

ウィルソンうぃるそんが掲かかげた 民族自決みんぞくじけつ の原則げんそく (各かく民族みんぞくが自分じぶんたちのことは自分じぶんたちで決きめる) は、 アジア・アフリカの植民しょくみん地ちで大おおきな反響はんきょうを呼よびました。

  • 朝鮮ちょうせん: 1919 年ねん 3 月つき、 日本にほん支配しはいからの独立どくりつを求もとめる 三・一独立運動さんいちどくりつうんどう が起おこる
  • 中国ちゅうごく: 1919 年ねん 5 月つき、 二十一カ条の要求にじゅういっかじょうのようきゅうと山東さんとう権益けんえきへの反発はんぱつから 五・四運動ごしうんどう が広ひろがる
  • インド: ガンディーがんでぃーによる非暴力・不服従運動ひぼうりょく・ふふくじゅううんどう

3. 大正たいしょうデモクラシーと社会しゃかい運動うんどう

大正たいしょうデモクラシーの思想しそう

第一次世界大戦だいいちじせかいたいせん後、 世界せかい的てきに民主主義みんしゅしゅぎと平和主義へいわしゅぎが広ひろがりました。 日本にほんでもこの流ながれを受うけて、 政治せいじの民主みんしゅ化かを求もとめる 大正デモクラシーたいしょうでもくらしー の風潮ふうちょうが高たかまります。

  • 吉野作造よしのさくぞう の 民本主義みんぽんしゅぎ: 主権しゅけんは天皇てんのうにあっても、 政治せいじは民衆みんしゅうの意向いこうに基もとづくべき。 天皇てんのう主権しゅけんを否定ひていせずに民主みんしゅ政治せいじを実現じつげんする理論りろん
  • 美濃部達吉みのべたつきち の 天皇機関説てんのうきかんせつ: 天皇てんのうは国家こっかの最高さいこう機関きかんであり、 法ほうに従したがって統治とうちする立憲りっけん君主くんしゅと捉とらえる

政党せいとう内閣ないかくの誕生たんじょう

1918 年ねん、 米騒動こめそうどうで内閣ないかくが倒たおれた後のち、 立憲政友会りっけんせいゆうかい総裁そうさい原敬はらたかしが首相しゅしょうに就任しゅうにんしました。 平民へいみん出身しゅっしんで爵位しゃくいを持もたない初はつの首相しゅしょうであり、 「平民宰相へいみんさいしょう」 と呼よばれました。 これは 本格ほんかく的てきな政党せいとう内閣ないかく の始はじまりです。

普通ふつう選挙せんきょ法ほうと治安ちあん維持いじ法ほう (1925)

大正デモクラシーたいしょうでもくらしーの運動うんどうの結果けっか、 1925 年ねんに画期的かっきてきな 2 つの法律ほうりつが成立せいりつしました。

法律ほうりつ内容ないよう
普通選挙法ふつうせんきょほう25 歳とし以上いじょうのすべての男子だんしに選挙せんきょ権けんを与あたえる (納税のうぜい要件ようけん撤廃てっぱい)。 有権者ゆうけんしゃ数すうが約やく 4 倍ばいに
治安維持法ちあんいじほう「国体こくたい」 (天皇てんのう主権しゅけんの体制たいせい) を変かえようとする運動うんどう、 私有しゆう財産ざいさん制度せいどを否定ひていする運動うんどうを取とり締しまる

大事だいじ: 普通選挙法ふつうせんきょほうは民主みんしゅ主義しゅぎの前進ぜんしんですが、 同時どうじに 治安維持法ちあんいじほう が成立せいりつしたことに注意ちゅういしましょう。 これは共産主義きょうさんしゅぎや社会主義しゃかいしゅぎ運動うんどうへの対策たいさくでしたが、 のちに思想しそう統制とうせいの道具どうぐとして広ひろく使つかわれ、 自由じゆうな言論げんろんを圧殺あっさつする原因げんいんとなりました。 「光ひかり」 と 「影かげ」 が同時どうじに成立せいりつしたのが 1925 年ねんです。

なお、 女性じょせいの選挙せんきょ権けんは実現じつげんせず、 これは 1945 年ねんの終戦しゅうせん後ごまで待まつことになります。

社会しゃかい運動うんどうと労働ろうどう運動うんどう

  • 労働ろうどう運動うんどう: 日本労働総同盟にほんろうどうそうどうめいが組織そしきされ、 ストライキが各地かくちで起おこる
  • 農民のうみん運動うんどう: 日本農民組合にっぽんのうみんくみあいが組織そしきされ、 小作争議こさくそうぎが急増きゅうぞう
  • 女性じょせい運動うんどう: 平塚らいてうひらつからいてうが雑誌ざっし 「青鞜せいとう」 を創刊そうかん (1911)、 1920 年ねんに新婦人協会しんふじんきょうかい結成けっせい
  • 部落ぶらく解放かいほう運動うんどう: 1922 年ねん、 全国水平社ぜんこくすいへいしゃ 結成けっせい
  • 共産きょうさん主義しゅぎ運動うんどう: 1922 年ねん、 日本共産党にっぽんきょうさんとう結成けっせい (非合法ひごうほう)

大衆たいしゅう文化ぶんかの発達はったつ

大正たいしょう後半こうはんから昭和しょうわ初期しょきにかけて、 都市とし部ぶを中心ちゅうしんに 大衆たいしゅう文化ぶんか が花開はなひらきました。

分野ぶんや内容ないよう
新聞しんぶん・雑誌ざっし「キング」 などの大衆たいしゅう雑誌ざっしが 100 万まん部ぶ超ちょう
ラジオ放送ほうそう1925 年ねんに開始かいし (東京とうきょう・大阪おおさか・名古屋なごや)
映画えいが無声むせい映画えいがからトーキー (有ゆう声ごえ映画えいが) へ
生活せいかつ「モボ・モガ」 (モダンボーイ・モダンガール) と呼よばれる若者わかものが登場とうじょう
文学ぶんがく芥川龍之介あくたがわりゅうのすけ (「羅生門らしょうもん」)、 志賀直哉しがなおや、 白樺派しらかばは
教育きょういく全国水平社宣言ぜんこくすいへいしゃせんげんのような自由じゆう教育きょういく運動うんどう

関東大震災かんとうだいしんさい (1923 年ねん 9 月つき 1 日にち)

1923 年ねん 9 月つき 1 日ひ午前ごぜん 11 時とき 58 分ぶん、 関東地方かんとうちほうを巨大きょだい地震じしんが襲おそいました。 マグニチュード 7.9。 死者ししゃ・行方ゆくえ不明ふめい者しゃは約やく 10 万まん 5 千せん人にん。 東京とうきょう・横浜よこはまは壊滅かいめつ的てきな被害ひがいを受うけ、 大だい火災かさいで焼やけ野原のはらになりました。 この日ひにちなみ、 9 月つき 1 日ひは現在げんざい 「防災の日ぼうさいのひ」 に定さだめられています。

大事だいじ: 震災しんさいの混乱こんらんの中なか、 「朝鮮ちょうせん人じんが井戸いどに毒どくを入いれた」 などのデマが広ひろがり、 多おおくの朝鮮人ちょうせんじんや中国人ちゅうごくじん、 社会しゃかい主義しゅぎ者しゃらが住民じゅうみんや軍ぐん・警察けいさつによって殺害さつがいされる 痛いたましい事件じけん が起おこりました。 災害さいがい時じのデマや差別さべつがいかに恐おそろしい結果けっかを招まねくかの教訓きょうくんとして、 現代げんだいに伝つたえられています。

4. 世界せかい恐慌きょうこうと昭和しょうわ恐慌きょうこう

昭和しょうわの始はじまり

1926 年ねんに大正天皇たいしょうてんのうが崩御ほうぎょし、 昭和天皇しょうわてんのうが即位そくい。 元号げんごうが 昭和しょうわ に変かわりました。

世界せかい恐慌きょうこう (1929)

1929 年ねん 10 月つき、 アメリカ・ニューヨークのウォール街うぉーるがいで株価かぶかが大だい暴落ぼうらくしました (暗黒の木曜日あんこくのもくようび)。 これをきっかけに世界中せかいじゅうに 世界恐慌せかいきょうこう が広ひろがります。

各国かっこくの対応たいおう:

国くに対応たいおう
アメリカルーズベルト大統領だいとうりょうの ニューディール政策ニューディールせいさく (公共こうきょう事業じぎょうで雇用こよう創出そうしゅつ)
イギリス・フランスブロック経済ブロックけいざい (本国ほんごくと植民しょくみん地ちで経済けいざい圏けんを作つくり、 外そとを高こう関税かんぜいで締しめ出だす)
ドイツヒトラーひとらー率ひきいるナチスなちすが政権せいけんを取とり、 軍備ぐんび拡張かくちょうで景気けいき回復かいふくをめざす
ソ連れん五カ年計画ごかねんけいかく で計画けいかく経済けいざい、 恐慌きょうこうの影響えいきょうをほぼ受うけず
日本にほん満州まんしゅう進出しんしゅつで打開だかいをはかる

日本にほんの昭和しょうわ恐慌きょうこう

日本にほんでは、 関東大震災かんとうだいしんさいの後遺症こういしょうや、 1927 年ねんの 金融恐慌きんゆうきょうこう (銀行ぎんこう倒産とうさんが連鎖れんさ) があり、 そこに世界恐慌せかいきょうこうが重かさなって深刻しんこくな不況ふきょうになりました。 これを 昭和恐慌しょうわきょうこう と呼よびます。

  • 都市としの失業しつぎょう者しゃが急増きゅうぞう (「大学だいがくは出でたけれど」)
  • 農村のうそんでは繭まゆ (生糸きいとの原料げんりょう) の価格かかく暴落ぼうらくで養蚕ようさん農家のうかが破綻はたん
  • 東北とうほく地方ちほうでは 娘の身売りむすめのみうり が社会しゃかい問題もんだいに
  • 小作争議こさくそうぎや労働争議ろうどうそうぎが激化げきか

このような社会しゃかい不安ふあんの中なか、 政府せいふへの不信ふしん感かんが高たかまり、 軍部ぐんぶが 「中国ちゅうごく・満州まんしゅうに進出しんしゅつして打開だかいしよう」 という考えかんがえを強つよめていきます。

5. 満州まんしゅう事変じへんと日中戦争にっちゅうせんそう

満州まんしゅう事変じへん (1931)

1931 年ねん 9 月つき 18 日にち、 満州まんしゅう (中国ちゅうごく東北とうほく部ぶ) の 柳条湖りゅうじょうこ 付近ふきんで、 日本にほんが経営けいえいする南満州鉄道みなみまんしゅうてつどうの線路せんろが爆破ばくはされる事件じけんが起おこりました (柳条湖事件りゅうじょうこじけん)。 これは日本にほんの 関東軍かんとうぐん (満州まんしゅうに駐留ちゅうりゅうしていた日本にほん陸軍りくぐん部隊ぶたい) が、 中国ちゅうごく軍ぐんの仕業しわざに見みせかけて自みずから起おこした事件じけんでした。

関東軍かんとうぐんはこれを口実こうじつに軍事ぐんじ行動こうどうを開始かいしし、 約やく半年はんとしで満州まんしゅう全土ぜんどを占領せんりょうしました。 これを 満州事変まんしゅうじへん と言いいます。

満州まんしゅう国こくの建国けんこく (1932)

1932 年ねん 3 月つき、 日本にほんは満州まんしゅうに 満州国まんしゅうこく を建国けんこくさせ、 清しんの最後さいごの皇帝こうていだった溥儀ふぎを 「執政しっせい」 (のちに皇帝こうてい) に据すえました。 形式けいしき上じょうは独立どくりつ国こくですが、 実態じったいは日本にほんが支配しはいする 傀儡かいらい国家こっかかいらいこっか でした。

リットン調査ちょうさ団だんと国際こくさい連盟れんめい脱退だったい

中国ちゅうごくの訴うったえを受うけて、 国際こくさい連盟れんめいはリットン調査団りっとんちょうさだんを派遣はけんし調査ちょうさしました。 1933 年ねん、 連盟れんめい総会そうかいは 「満州まんしゅうは中国ちゅうごくの領土りょうどである」 「日本にほん軍ぐんは撤退てったいすべき」 とする報告ほうこく書しょを採択さいたく。 これに反発はんぱつした日本にほんは、 同年どうねん 3 月つきに 国際連盟脱退こくさいれんめいだったい を通告つうこくしました。 日本にほんの代表だいひょうは松岡洋右まつおかようすけでした。

大事だいじ: 国際連盟脱退こくさいれんめいだったいは、 日本にほんが 国際こくさい社会しゃかいから孤立こりつ していく決定的けっていてきな転換てんかん点てんでした。 この後のち、 日本にほんはドイツ・イタリアと接近せっきんし、 やがて第だい二に次じ世界せかい大戦たいせんに進すすんでいきます。

軍部ぐんぶの台頭たいとうと政党せいとう政治せいじの崩壊ほうかい

恐慌きょうこうで民衆みんしゅうが苦くるしみ、 既存きそん政党せいとうが無力むりょくに見みえる中なか、 「強つよい指導しどう者しゃで社会しゃかいを立たて直なおすべき」 という風潮ふうちょうが高たかまりました。 軍部ぐんぶの青年せいねん将校しょうこうや右翼うよくが、 暴力ぼうりょくで政治せいじを変かえようとするテロ事件じけんが相次あいつぎます。

事件じけん年月としつき内容ないよう
五・一五事件ごいちごじけん1932 年ねん 5 月つき 15 日にち海軍かいぐん青年せいねん将校しょうこうらが首相しゅしょう犬養毅いぬかいつよしを暗殺あんさつ。 「話せばわかるはなせばわかる」 「問答無用もんどうむよう」 の言葉ことばが伝つたわる
二・二六事件ににろくじけん1936 年ねん 2 月つき 26 日にち陸軍りくぐん青年せいねん将校しょうこう約やく 1400 名なが首相しゅしょう官邸かんていなどを襲撃しゅうげき。 高橋是清たかはしこれきよ蔵相ぞうしょうらを殺害さつがい

五・一五事件ごいちごじけんで本格ほんかく的てきな政党内閣せいとうないかくは終おわり、 軍人ぐんじんや官僚かんりょう出身しゅっしんの首相しゅしょうが続つづくようになりました。 議会ぎかいの力ちからは弱よわまり、 軍部ぐんぶの発言はつげん力りょくが強つよまります。

日中戦争にっちゅうせんそう (1937-1945)

1937 年ねん 7 月つき 7 日にち、 北京ぺきん郊外こうがいの 盧溝橋ろこうきょう で日にち中ちゅう両りょう軍ぐんが衝突しょうとつする事件じけん (盧溝橋事件ろこうきょうじけん) が起おこりました。 これがきっかけで戦線せんせんが拡大かくだいし、 全面ぜんめん的てきな 日中戦争にっちゅうせんそう が始はじまります。

主おもな戦闘せんとう年月としつき
盧溝橋事件ろこうきょうじけん1937 年ねん 7 月つき
上海しゃんはい上陸じょうりく1937 年ねん 8 月つき
南京なんきん占領せんりょう1937 年ねん 12 月つき
武漢ぶかん占領せんりょう1938 年ねん 10 月つき
重慶じゅうけい爆撃ばくげき1938 年ねん 12 月つき以降いこう

南京なんきん占領せんりょう時じには、 日本にほん軍ぐんによる多数たすうの中国人ちゅうごくじん民間みんかん人じん・捕虜ほりょへの殺害さつがい・略奪りゃくだつが起おこり (南京事件なんきんじけん)、 戦後せんごの国際こくさい社会しゃかいで大おおきく問題もんだいになりました。 犠牲ぎせい者しゃの数かずについては諸説しょせつあり、 歴史れきし研究けんきゅうの課題かだいとなっています。

大事だいじ: 日中戦争にっちゅうせんそうは日本にほん軍ぐんの予想よそうに反はんして長期ちょうき化かしました。 中国ちゅうごく国民こくみんは国民党こくみんとう (蔣介石しょうかいせき) と共産党きょうさんとう (毛沢東もうたくとう) が 国共合作こっきょうがっさく で団結だんけつして抵抗ていこうを続つづけたためです。 1945 年ねんの日本にほん敗戦はいせんまで戦闘せんとうは続つづき、 中国ちゅうごく民間みんかん人じんを含ふくむ膨大ぼうだいな犠牲ぎせいを生うみました。

国家こっか総動員そうどういん体制たいせい

戦争せんそうが長引ながびくにつれ、 日本にほん国内こくないは 戦時せんじ体制たいせい に変かわっていきます。

政策せいさく内容ないよう
国家総動員法こっかそうどういんほう (1938)戦争せんそうのために、 政府せいふが国民こくみん・物資ぶっしを自由じゆうに動員どういんできるとする法律ほうりつ
大政翼賛会たいせいよくさんかい (1940)政党せいとうをすべて解散かいさんさせ、 一ひとつの組織そしきにまとめる
隣組となりぐみ5-10 軒のきで組織そしきし、 相互そうご監視かんし・配給はいきゅう・防空ぼうくう訓練くんれんを行おこなう
配給はいきゅう制せい米べい・砂糖さとう・衣料いりょう品ひんなど生活せいかつ必需ひつじゅ品ひんの購入こうにゅうを制限せいげん
学徒勤労動員がくとろうどう中学生ちゅうがくせい以上いじょうを工場こうじょう・農村のうそんで働はたらかせる
言論統制げんろんとうせい新聞しんぶん・出版しゅっぱん物ぶつへの検閲けんえつを強化きょうか

6. 第だい二に次じ世界せかい大戦たいせんと太平洋戦争たいへいようせんそう

第だい二に次じ世界せかい大戦たいせんの開始かいし (1939)

1939 年ねん 9 月つき 1 日にち、 ドイツがポーランドに侵攻しんこうし、 第二次世界大戦だいにじせかいたいせんが始はじまりました。 同月どうげつ、 イギリスとフランスがドイツに宣戦せんせん布告ふこく。

1940 年ねん 9 月つき、 日本にほん・ドイツ・イタリアが 日独伊三国同盟にちどくいさんごくどうめい を結むすびました。 1941 年ねん 4 月つきには 日ソ中立条約にっそちゅうりつじょうやく も結むすんでいます。

日にち米べい関係かんけいの悪化あっか

日本にほんの中国ちゅうごく進出しんしゅつに反対はんたいするアメリカは、 1941 年ねん 7 月つき、 在ざい米べい日本にほん資産しさんの凍結とうけつ、 8 月つきには 石油の対日全面禁輸せきゆのたいにちぜんめんきんゆ を実施じっししました。 アメリカ・イギリス・中国ちゅうごく・オランダの 「ABCD 包囲網エービーシーディーほういもう」 と呼よばれる経済けいざい封鎖ふうさです。

日本にほんは石油せきゆの 8 割わりをアメリカからの輸入ゆにゅうに頼たよっていたため、 これは大だい打撃だげきでした。 日にち米べい交渉こうしょうが続つづけられましたが、 東条英機とうじょうひでき内閣ないかく (1941 年ねん 10 月つき発足ほっそく) は最終さいしゅう的てきに開戦かいせんを決断けつだんします。

真珠湾しんじゅわん攻撃こうげきと太平洋戦争たいへいようせんそう (1941-1945)

1941 年ねん 12 月つき 8 日にち、 日本にほん海軍かいぐん機動きどう部隊ぶたいがハワイの 真珠湾しんじゅわん にあるアメリカ太平洋艦隊たいへいようかんたいを奇襲きしゅう攻撃こうげきし、 同時どうじにイギリス領マレー半島まれーはんとうに上陸じょうりくしました。 これが 太平洋戦争たいへいようせんそう の開戦かいせんです (第二次世界大戦だいにじせかいたいせんのアジア戦線せんせんとも呼よぶ)。

戦争せんそうの経過けいか

時期じき主おもな動うごき
1941-1942 年ねん前半ぜんはん日本にほん軍ぐんが東南とうなんアジア・太平洋たいへいようを席巻せっけん (シンガポール・フィリピン・インドネシアなどを占領せんりょう)
1942 年ねん 6 月つきミッドウェー海戦みっどうぇーかいせん で日本にほん海軍かいぐんが大敗たいはい。 戦況せんきょうの転換てんかん点てん
1942-1943 年ねんガダルカナル島ガダルカナルとうの戦たたかいで日本にほん軍ぐんが撤退てったい
1944 年ねんサイパン島サイパンとう陥落かんらく、 アメリカ軍ぐんが日本にほん本土ほんど爆撃ばくげき可能かのうに
1944 年ねん 11 月つき-B-29による 本土ほんど空襲くうしゅう が本格ほんかく化か
1945 年ねん 3 月つき 10 日にち東京大空襲とうきょうだいくうしゅう — 1 晩ばんで約やく 10 万まん人にんが死亡しぼう
1945 年ねん 4-6 月つき沖縄戦おきなわせん — 民間みんかん人じん約やく 9 万まん 4 千せん人にんを含ふくむ約やく 20 万まん人にんが死亡しぼう

戦争せんそう中ちゅうの日本人にっぽんじんと植民しょくみん地ちの人々ひとびと

  • 本土ほんどの市民しみん: 度重たびかさなる空襲くうしゅう。 学童疎開がくどうそかいで子供こどもたちが地方ちほうに避難ひなん
  • 植民しょくみん地ち・占領せんりょう地ちの人々ひとびと: 朝鮮ちょうせんでは創氏改名そうしかいめい (日本にほん式しきの姓名せいめいに変かえる)、 強制きょうせい的てきな労務ろうむ動員どういん、 「従軍慰安婦じゅうぐんいあんふ」 として動員どういんされた女性じょせいも
  • 強制きょうせい連行れんこう: 朝鮮ちょうせん・中国ちゅうごくから多おおくの人々ひとびとが炭鉱たんこうや工場こうじょうで働はたらかされた
  • 空襲くうしゅう・艦砲射撃かんほうしゃげき: 全国ぜんこくの都市としが攻撃こうげきを受うけ、 一般いっぱん市民しみんが犠牲ぎせいに

大事だいじ: 戦争せんそうでは兵士へいしだけでなく、 非ひ戦闘せんとう員いん (民間みんかん人じん) の犠牲ぎせい が極きわめて多おおかったことを忘わすれてはいけません。 日本にほん側がわだけで戦没せんぼつ者しゃは約やく 310 万まん人にん (うち民間みんかん人じん約やく 80 万まん人にん)、 中国ちゅうごく・東南とうなんアジアの人々ひとびとを含ふくめれば 2000 万まん人にん以上いじょうの命いのちが失うしなわれたとされます。

7. 終戦しゅうせんへの道みち

ポツダム宣言せんげん

1945 年ねん 7 月つき、 ドイツが降伏ごうぶくしたあと、 ドイツのポツダムでアメリカ (トルーマン)・イギリス (チャーチル、 のちアトリー)・中国ちゅうごく (蔣介かい石せき) が ポツダム宣言ぽつだむせんげん を発表はっぴょうしました。 日本にほんに 無条件むじょうけん降伏ごうぶく を求もとめる内容ないようです (のちにソ連れんも参加さんか)。

日本にほん政府せいふは当初とうしょ、 これを 「黙殺もくさつ」 すると発表はっぴょうしました (これが外国がいこくで 「拒否きょひ」 と訳やくされたことが事態じたいを悪化あっかさせたという見方みかたもあります)。

原爆げんばく投下とうかとソ連れん参戦さんせん

  • 1945 年ねん 8 月つき 6 日ひ午前ごぜん 8 時とき 15 分ぶん: アメリカ軍ぐんが 広島ひろしま に世界せかい初はつの 原子爆弾げんしばくだん を投下とうか。 約やく 14 万まん人にんが同どう年内ねんないに死亡しぼう
  • 1945 年ねん 8 月つき 9 日ひ午前ごぜん 11 時とき 2 分ぶん: 長崎ながさき に 2 発はつ目めの原子げんし爆弾ばくだん。 約やく 7 万まん 4 千せん人にんが同どう年内ねんないに死亡しぼう
  • 1945 年ねん 8 月つき 8 日にち: ソ連それんが日ソ中立条約にちソちゅうりつじょうやくを破棄はきして対たい日にち参戦さんせん、 翌よく 9 日ひに満州まんしゅう・樺太からふと・千島ちしまへ進撃しんげき

玉音ぎょくおん放送ほうそうと終戦しゅうせん

1945 年ねん 8 月つき 14 日にち、 日本にほん政府せいふはポツダム宣言ぽつだむせんげんの受諾じゅだくを決定けっていしました。 8 月つき 15 日ひ正午しょうご、 昭和天皇しょうわてんのうによる 玉音放送ぎょくおんほうそう がラジオで放送ほうそうされ、 日本にほんの降伏ごうぶくが国民こくみんに伝つたえられました。 これが 終戦の日しゅうせんのひ です。

9 月つき 2 日にち、 東京とうきょう湾わんのアメリカ戦艦せんかんミズーリ号ごう上じょうで 降伏文書ごうぶくぶんしょ に調印ちょういんしました。

戦争せんそうの数字すうじ

項目こうもく数字すうじ
日本人にっぽんじん戦没せんぼつ者しゃ約やく 310 万まん人にん (うち民間みんかん人じん約やく 80 万まん人にん)
広島ひろしま原爆げんばく死者ししゃ (1945 年内ねんない)約やく 14 万まん人にん
長崎ながさき原爆げんばく死者ししゃ (1945 年内ねんない)約やく 7 万まん 4 千せん人にん
東京とうきょう大だい空襲くうしゅう死者ししゃ (1 晩ばん)約やく 10 万まん人にん
沖縄おきなわ戦死せんし者しゃ約やく 20 万まん人にん (うち民間みんかん人じん約やく 9 万まん 4 千せん人にん)
中国ちゅうごくの死者ししゃ (戦争せんそう全ぜん期間きかん)諸説しょせつあるが約やく 1000 万まん人にん以上いじょう
第だい二に次じ大戦たいせん全ぜん世界せかいの死者ししゃ約やく 5000-8000 万まん人にん

8. 戦争せんそうの教訓きょうくんと平和へいわへの思おもい

この章しょうのまとめ

年ねんできごと
1912大正たいしょう改元かいげん、 大正政変たいしょうせいへん
1914-1918第一次世界大戦だいいちじせかいたいせん
1915二十一カ条の要求にじゅういっかじょうのようきゅう
1918米騒動こめそうどう、 原敬はらたかし内閣ないかく (政党せいとう内閣ないかく)
1919三・一独立運動さんいちどくりつうんどう (朝鮮ちょうせん)、 五・四運動ごしうんどう (中国ちゅうごく)、 ベルサイユ条約べるさいゆじょうやく
1920国際連盟こくさいれんめい成立せいりつ
1923関東大震災かんとうだいしんさい
1925普通選挙法ふつうせんきょほう + 治安維持法ちあんいじほう
1929世界恐慌せかいきょうこう
1931満州事変まんしゅうじへん
1932満州国まんしゅうこく建国けんこく、 五・一五事件ごいちごじけん
1933国際連盟脱退こくさいれんめいだったい
1936二・二六事件ににろくじけん
1937日中戦争にっちゅうせんそう 開始かいし (盧溝橋事件ろこうきょうじけん)
1938国家総動員法こっかそうどういんほう
1939第二次世界大戦だいにじせかいたいせん 開始かいし
1940日独伊三国同盟にちどくいさんごくどうめい
1941太平洋戦争たいへいようせんそう 開戦かいせん (真珠湾攻撃しんじゅわんこうげき 12 月つき 8 日にち)
1942ミッドウェー海戦みっどうぇーかいせん
19453 月東京大空襲とうきょうだいくうしゅう、 6 月沖縄戦おきなわせん終結しゅうけつ、 8/6 広島原爆ひろしまげんばく、 8/9 長崎原爆ながさきげんばく、 8/15 終戦しゅうせん

戦争せんそうの教訓きょうくんを受うけ継つぐ

第だい二に次じ世界せかい大戦たいせん・太平洋戦争たいへいようせんそうは、 日本にほんにも、 アジアの多おおくの国くににも、 そして世界せかい全体ぜんたいに、 二度にどと繰くり返かえしてはならない傷きずを残のこしました。 私わたしたちが歴史れきしを学まなぶ大切たいせつな理由りゆうは、 この教訓きょうくんを未来みらいに伝つたえることです。

なぜ戦争せんそうに至いたったのかを考かんがえる

  • 経済けいざいの苦くるしさ (昭和恐慌しょうわきょうこう) が民衆みんしゅうの不満ふまんを高たかめた
  • 軍部ぐんぶの独走どくそうを、 議会ぎかいや報道ほうどうが止とめられなかった
  • 自由じゆうな言論げんろんを封ふうじる治安維持法ちあんいじほうが、 異ことなる意見いけんを消けした
  • 国際こくさい協調きょうちょうを捨すてて孤立こりつした (国際連盟脱退こくさいれんめいだったい)
  • 「強つよい指導しどう者しゃで解決かいけつできる」 という幻想げんそうが広ひろがった

これらの 「戦争せんそうへの道筋みちすじ」 は、 一ひとつひとつは普通ふつうの出来事できごとに見みえました。 だからこそ、 私わたしたちは 「歴史れきしを学まなんで、 同おなじ道みちを二度にどと歩あゆまない」 ことを意識いしきする必要ひつようがあります。

平和へいわを伝つたえる施設しせつを訪おとずれる

戦争せんそうの記憶きおくを伝つたえる施設しせつが日本にほん各地かくちにあります。

  • 広島平和記念資料館ひろしまへいわきねんしりょうかん (広島ひろしま県けん) — 原爆ドームげんばくドーム (世界せかい遺産いさん)
  • 長崎原爆資料館ながさきげんばくしりょうかん (長崎ながさき県けん)
  • ひめゆり平和祈念資料館ひめゆりへいわきねんしりょうかん (沖縄おきなわ県けん) — 沖縄おきなわ戦せんの女子じょし学徒がくと隊たいの記録きろく
  • 沖縄県平和祈念資料館おきなわけんへいわきねんしりょうかん (沖縄おきなわ県けん糸満いとまん市し)
  • 昭和館しょうわかん (東京とうきょう) — 戦中せんちゅう・戦後せんごの国民こくみん生活せいかつの資料しりょう
  • 東京大空襲・戦災資料センターとうきょうだいくうしゅう・せんさいしりょうセンター (東京とうきょう)

訪おとずれる時ときの心こころがけ

  • 静しずかに見学けんがくする: 多おおくの遺品いひんや写真しゃしんがあります。 大声おおごえで騒さわいだり走はしり回まわったりしない
  • 遺品いひんや記録きろくに敬意けいいを払はらう: 一ひとつひとつが、 誰だれかの命いのちや苦くるしみの記録きろくです。 撮影さつえい禁止きんしのものは絶対ぜったいに撮とらない
  • わからない言葉ことばや感情かんじょうを持もち帰かえる: 見学けんがく中ちゅうにすべて理解りかいできなくても良よい。 「これは何なにだろう」 「どう感かんじればよいのか」 を持もち帰かえり、 大人おとなと話はなし合あおう
  • 戦争せんそう体験たいけん者しゃの話はなしを聞きく: 直接ちょくせつ戦争せんそうを経験けいけんした方ほうは年々ねんねん少すくなくなっています。 機会きかいがあれば話はなしを聞きいて記録きろくしよう
  • 「敵てき」「味方みかた」 を超こえて考かんがえる: 戦争せんそうで犠牲ぎせいになったのは日本人にっぽんじんだけではありません。 中国ちゅうごく・朝鮮ちょうせん・東南とうなんアジアの人々ひとびとの苦くるしみも合あわせて学まなびましょう

大事だいじ: 戦争せんそうを学まなぶ目的もくてきは、 「日本にほんが悪わるかった」 「相手あいてが悪わるかった」 と単純たんじゅんに決きめることではありません。 「なぜ戦争せんそうに至いたったのか」 「どうすれば防ふせげたのか」 「今いまの私わたしたちは何なにを学まなべるのか」 を考かんがえることが大切たいせつです。 日本国憲法にほんこくけんぽうの前文ぜんぶんには 「政府せいふの行為こういによって再ふたたび戦争せんそうの惨禍さんかが起おこることのないようにすることを決意けついし」 と書かかれています。 これは戦争せんそうを経験けいけんした世代せだいから私わたしたちへの大切たいせつなメッセージです。

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第だい 10 章しょうでは、 1945 年ねんの終戦しゅうせんから現在げんざい (令和れいわ) までを学まなびます。 GHQによる民主みんしゅ化か改革かいかく、 日本国憲法にほんこくけんぽうの制定せいてい、 高度経済成長こうどけいざいせいちょう、 冷戦れいせんとその終結しゅうけつ、 阪神淡路大震災はんしんあわじだいしんさい・東日本大震災ひがしにほんだいしんさいという大だい災害さいがい、 そしてグローバル化ぐろーばるかと少子高齢化しょうしこうれいかの現代げんだいまで、 私わたしたちが生いきる時代じだいがどう形成けいせいされたかを見みていきます。

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