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歴史

平安へいあん時代じだい (貴族きぞく文化ぶんかと武士ぶしの登場とうじょう)

最終確認日:

この章しょうで学まなぶこと

第だい 4 章しょうは、 7 9 4 年ねんの 平安京へいあんきょう 遷都せんとから 1 1 8 5 年ねんの平氏へいし滅亡めつぼうまで、 約やく 4 0 0 年ねん続つづく 平安時代へいあんじだい を学まなびます。 この時代じだいは、 貴族きぞくの文化ぶんかが花開はなひらいた時代じだい であり、 同時どうじに 武士ぶしという新あたらしい階層かいそうが登場とうじょう した時代じだいでもあります。

  • 桓武天皇かんむてんのう による 平安京へいあんきょう 遷都せんと (7 9 4 年ねん) とその改革かいかく
  • 摂関政治せっかんせいじ と 藤原道長ふじわらのみちなが・藤原頼通ふじわらのよりみち の全盛ぜんせい
  • 国風文化こくふうぶんか — かな文字もじ、 源氏物語げんじものがたり (紫式部むらさきしきぶ)、 枕草子まくらのそうし (清少納言せいしょうなごん)
  • 浄土信仰じょうどしんこう と平等院鳳凰堂びょうどういんほうおうどう
  • 武士ぶし の登場とうじょうと源氏げんじ・平氏へいしの台頭たいとう
  • 院政いんせい (白河上皇しらかわじょうこう) と 平清盛たいらのきよもり の平氏へいし政権せいけん

大事だいじ: 平安時代へいあんじだいは 「貴族きぞくの雅みやびな文化ぶんか」 だけで語かたれません。 政治せいじの中心ちゅうしんが 「天皇てんのう → 摂関せっかん → 上皇じょうこう → 武士ぶし」 へと移うつっていく 大おおきな変化へんかが起おきています。 この流ながれをつかむことが大切たいせつです。

1. 平安京へいあんきょう遷都せんとと桓武かんむ天皇てんのう

平等院鳳凰堂と池
平等院びょうどういん鳳凰堂ほうおうどう (京都きょうと府ふ宇治うじ市し) — 1053 年ねん藤原ふじわら頼通よりみち建立こんりゅう。 国風文化こくふうぶんか・浄土信仰じょうどしんこうの代表だいひょう。 10 円えん玉だまの図案ずあん。
土佐光起による源氏物語絵
源氏物語げんじものがたり 絵巻えまき — 11 世紀せいき初頭しょとう紫式部むらさきしきぶ作。 世界せかい最古さいこの長編ちょうへん小説しょうせつとも。 国風文化こくふうぶんかの代表だいひょう作さく。

なぜ都とを移うつしたか

7 8 4 年ねん、 桓武天皇かんむてんのうは都とを平城京へいじょうきょうから 長岡京ながおかきょう に移うつし、 さらに 7 9 4 年ねんに 平安京へいあんきょう (へいあんきょう、 現在げんざいの京都きょうと市し) に遷都せんとしました。 その理由りゆうはつぎの通とおり。

理由りゆうくわしく
仏教ぶっきょう勢力せいりょくからの距離きょり奈良ならの大だい寺院じいんが政治せいじに介入かいにゅうするのを避さける
政治せいじの立たて直なおし律令制りつりょうせい度を再建さいけんしたい
地理ちり的てき利便りべん京都きょうと盆地ぼんちは水運すいうん・交通こうつうに便利べんり

桓武かんむ天皇てんのうの改革かいかく

桓武天皇かんむてんのうはつぎの改革かいかくを行おこないました。

  • 勘解由使かげゆし (かげゆし) を置おき、 国司こくしの不正ふせいをチェック
  • 健児こんでい (こんでい) 制せいを導入どうにゅうし、 兵役へいえきの一部いちぶを廃止はいし
  • 蝦夷えみし (えみし) 征討せいとう — 坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろを 征夷大将軍せいいたいしょうぐん に任命にんめい

ポイント: 征夷大将軍せいいたいしょうぐん は後ごに鎌倉かまくら・室町むろまち・江戸えどの 武家ぶけ政権せいけん の長ちょうの称号しょうごうとなりますが、 元もとは 蝦夷えみしを征討せいとうする将軍しょうぐん という意味いみでした。

2. 摂関せっかん政治せいじと藤原ふじわら氏し

藤原ふじわら氏しの台頭たいとう

中臣鎌足なかとみのかまたり (= 藤原鎌足ふじわらのかまたり) の子孫しそんである 藤原氏ふじわらし は、 平安時代へいあんじだいを通つうじて朝廷ちょうていで大おおきな力ちからを持もちました。 特とくに 9 〜 1 1 世紀せいきには、 天皇てんのうの 摂政せっしょう (せっしょう、 天皇てんのうが幼おさない時とき) や 関白かんぱく (かんぱく、 天皇てんのうが成人せいじん後ご) として政治せいじを動うごかしました。 これを 摂関政治せっかんせいじ と言いいます。

藤原ふじわら氏しの権力けんりょく確立かくりつ法ほう

藤原氏ふじわらしはつぎの方法ほうほうで権力けんりょくを確立かくりつしました。

  1. 娘むすめを天皇てんのうの妃きさき (きさき) にする
  2. 生うまれた皇子おうじが天皇てんのうになる
  3. 自分じぶんが 外祖父がいそふ (がいそふ、 母方ははかたの祖父そふ) として摂政せっしょう・関白かんぱくになる
  4. 政治せいじを動うごかす

藤原道長ふじわらのみちながと頼通よりみちの全盛ぜんせい

摂関政治せっかんせいじのピークは 藤原道長ふじわらのみちなが (ふじわらのみちなが、 9 6 6 〜 1 0 2 8) とその子こ 藤原頼通ふじわらのよりみち (よりみち) の時代じだい (1 1 世紀せいき前半ぜんはん) です。

藤原道長ふじわらのみちながが詠よんだと伝つたえられる有名ゆうめいな歌うた:

「この世よをばわが世よとぞ思おもふ望月もちづきのかけたることもなしと思おもへば」 (この世よは私わたしのものだ。 望月もちづき (満月まんげつ) が欠かけた所ところがないように、 私わたしの望のぞみも欠かけることがない)

大事だいじ: この歌うたは 藤原道長ふじわらのみちながの全盛ぜんせいを象徴しょうちょう すると教おしえられますが、 出典しゅってんは道長みちなが自身じしんの日記にっきでなく別べつの史料しりょう (「小しょう右記うき」 しょうゆうき) であり、 どこまで道長みちながの真意しんいかは 解釈かいしゃくが分わかれます。

3. 国風こくふう文化ぶんかとかな文字もじ

遣唐使けんとうしの停止ていし

8 9 4 年ねん、 菅原道真すがわらのみちざね (すがわらのみちざね) の提案ていあんで 遣唐使けんとうしが停止ていし されました。 唐とうが衰おとろえ、 危険きけんと利益りえきが釣つり合あわなくなったことが大おおきな理由りゆうとされます (これも 諸説しょせつあり)。 結果けっかとして中国ちゅうごく文化ぶんかの直接ちょくせつ流入りゅうにゅうが減へり、 日本にほん独自どくじの 国風文化こくふうぶんか が育そだちました。

かな文字もじの発達はったつ

中国ちゅうごくから入はいった 漢字かんじ だけで日本語にほんごを書かくのは不便ふべんでした。 そこで 漢字かんじ を簡略かんりゃく化かして ひらがな と カタカナ が作つくられ、 9 〜 1 0 世紀せいきに広ひろまりました。

文字もじ起源きげん
ひらがな漢字かんじの草書そうしょ体たいを崩くずしたもの
カタカナ漢字かんじの一部いちぶを取とり出だしたもの

ポイント: ひらがなは主おもに 女性じょせい が使つかい、 カタカナは主おもに 僧侶そうりょ が漢文かんぶん訓読くんどくに使つかったとされます。 この 女性じょせいがひらがなを使つかう文化ぶんか が、 源氏物語げんじものがたりなどの大だい文学ぶんがくを生うみ出だす土台どだいとなりました。

国風こくふう文化ぶんかの文学ぶんがく

作品さくひん作者さくしゃ特徴とくちょう
源氏物語げんじものがたり紫式部むらさきしきぶ (1 0 0 8 年ねんごろ)世界せかい最古さいこの長編ちょうへん小説しょうせつとも言いわれる 5 4 帖じょうの物語ものがたり
枕草子まくらのそうし清少納言せいしょうなごん (1 0 0 0 年ねんごろ)宮廷きゅうてい生活せいかつを観察かんさつした随筆ずいひつ
古今和歌集こきんわかしゅう紀貫之きのつらゆきら編へん (9 0 5 年ねん)最初さいしょの勅撰ちょくせん和歌集わかしゅう
土佐日記とさにっき紀貫之きのつらゆきかな文字もじで書かかれた最古さいこの日記にっき文学ぶんがく

国風こくふう文化ぶんかの美術びじゅつ・建築けんちく

文化財ぶんかざい説明せつめい
寝殿造しんでんづくり貴族きぞくの邸宅ていたく様式ようしき。 寝殿しんでんを中心ちゅうしんに廊下ろうかで結むすぶ
大和絵やまとえ日本にほんの風景ふうけい・物語ものがたりを描えがく絵画かいが
十二単じゅうにひとえ女性じょせいの重かさね着ぎ衣装いしょう

4. 浄土じょうど信仰しんこうと平等院びょうどういん鳳凰堂ほうおうどう

なぜ浄土じょうど信仰しんこうが広ひろまったか

1 1 世紀せいき、 「末法まっぽうの世よが来くる」 (= 仏法ぶっぽうが衰おとろえ災わざわいが続つづく) という 末法思想まっぽうしそう が広ひろまりました。 人々ひとびとは不安ふあんから、 「南無阿弥陀仏なむあみだぶつ」 と念仏ねんぶつを唱となえれば 極楽浄土ごくらくじょうど に行いけるという 浄土信仰じょうどしんこう にすがりました。

平等院びょうどういん鳳凰堂ほうおうどう

藤ふじ原わら頼より通みちが 1 0 5 3 年ねんに京都きょうと府ふ宇治うじに建たてた 平等院鳳凰堂びょうどういんほうおうどう は 極楽浄土ごくらくじょうどをこの世よに表あらわした建物たてもの で、 日本にほんの 1 0 円えん玉だまのデザインにもなっています。 ユネスコ世界せかい遺産いさんです。

大事だいじ: 浄土信仰じょうどしんこうは後ごの 鎌倉新仏教かまくらしんぶっきょう (法然ほうねんの浄土宗じょうどしゅう、 親鸞しんらんの浄土真宗じょうどしんしゅう) へつながります。

5. 武士ぶしの登場とうじょう

武士ぶしの起源きげん

平安時代へいあんじだい中なかごろ、 各地かくちで治安ちあんが悪化あっかし、 荘園しょうえんや国衙こくが (こくが、 国司こくしの役所やくしょ) を守まもるための 武士ぶし が生うまれました。 元もとは地方ちほう豪族ごうぞくや国司こくしの子孫しそんが武装ぶそうしたもので、 やがて 武装ぶそう集団しゅうだん (武士ぶし団だん) を形成けいせいします。

源みなもと氏しと平氏へいし

二に大だい武士ぶし団だんが 源氏げんじ (げんじ、 清せい和わ源げん氏じ) と 平氏へいし (へいし、 桓かん武む平氏へいし) です。 どちらも元もとは天皇てんのうの子孫しそん (皇族こうぞくから臣籍しんせきに下くだった者ものとその子孫しそん) です。

平将門たいらのまさかどの乱らんと藤原ふじわら純じゅん友ともの乱らん

1 0 世紀せいき中ちゅうごろ、 関東かんとうで 平将門の乱たいらのまさかどのらん (9 3 5 〜 9 4 0 年ねん)、 瀬戸内海せとないかいで 藤原純友の乱ふじわらのすみとものらん (9 3 9 〜 9 4 1 年ねん) が起おこりました。 朝廷ちょうていは自力じりきで鎮圧ちんあつできず、 ほかの 武士ぶし の力ちからを借かりて鎮圧ちんあつしました。 これで 「武士ぶしがいないと治安ちあんが守まもれない」 ことが明あきらかになりました。

ポイント: 2 つの乱らんは 同おなじ時期じきに東西とうざいで起おこった ことから 「承平天慶の乱じょうへいてんぎょうのらん」 (じょうへいてんぎょうのらん) と総称そうしょうされます。

武士ぶしの主従しゅうじゅう関係かんけい

武士ぶしは 「主君しゅくん (親分おやぶん) と家来けらい (子分こぶん)」 の主従しゅうじゅう関係かんけい で結むすばれました。 これが後ごの 御恩と奉公ごおんとほうこう (鎌倉かまくら時代じだい) の原型げんけいとなります。

6. 院政いんせいと平氏へいし政権せいけん

院政いんせいの始はじまり

1 0 8 6 年ねん、 白河天皇しらかわてんのうが譲位じょういして 白河上皇しらかわじょうこう となり、 上皇じょうこうが 「院いん」 として政治せいじを動うごかす 院政いんせい が始はじまりました。 摂関せっかん政治せいじ (藤原ふじわら氏しが動うごかす) の時代じだいが終おわり、 天皇てんのう家か自身じしんが政治せいじを取とり戻もどした 形かたちです。

上皇じょうこう院政いんせい期間きかん
白河上皇しらかわじょうこう1 0 8 6 〜 1 1 2 9 年ねん
鳥と羽ば上皇じょうこう1 1 2 9 〜 1 1 5 6 年ねん
後こう白河しらかわ上皇じょうこう1 1 5 8 〜 1 1 9 2 年ねん

院政いんせいのしくみ

院政いんせいはつぎのように動うごきました。

  • 上皇じょうこうは 院庁いんちょう (いんのちょう) を置おき、 そこから命令めいれいを出だす
  • 上皇じょうこうは 北面の武士ほくめんのぶし を雇やとい、 武力ぶりょくを持もつ
  • 源氏げんじ・平氏へいしが上皇じょうこうや朝廷ちょうていに仕つかえ、 力ちからをつける

保元ほうげん・平治へいじの乱らんと平清盛たいらのきよもりの台頭たいとう

乱らん年ねん内容ないよう
保元の乱ほうげんのらん1 1 5 6皇位こうい継承けいしょうをめぐり後白河天皇ごしらかわてんのうと崇たかし徳とく上皇じょうこうが対立たいりつ。 双方そうほうが源氏げんじ・平氏へいしを動員どういんし、 後こう白河しらかわ側がわが勝利しょうり
平治の乱へいじのらん1 1 5 9源義朝みなもとのよしともと平清盛たいらのきよもりが対立たいりつし、 平清盛たいらのきよもりが勝利しょうり

平治の乱へいじのらんで勝かった 平清盛たいらのきよもり は、 武士ぶしとして初はじめて朝廷ちょうていで高たかい地位ちい (太政大臣だじょうだいじん) に就つきました (1 1 6 7 年ねん)。 また娘むすめを高倉天皇たかくらてんのうの妃きさきとし、 生うまれた皇子おうじを 安徳天皇あんとくてんのう として即位そくいさせ、 藤原氏ふじわらしと同おなじ 「外祖父がいそふ」 戦略せんりゃくを取とりました。

平氏へいし政権せいけんと日宋貿易にっそうぼうえき

平清盛たいらのきよもりは 日宋貿易にっそうぼうえき (にっそうぼうえき) を進すすめ、 兵庫ひょうご (現在げんざいの神戸こうべ) の 大輪田泊おおわだのとまり (おおわだのとまり) を整備せいびしました。 これで平氏へいしは莫大ばくだいな富とみを得えましたが、 「平家へいけにあらずんば人ひとにあらず」 と言いわれるほどの専横せんおうに反発はんぱつが高たかまりました。

源平げんぺいの争乱そうらん

1 1 8 0 年ねん、 後白河上皇ごしらかわじょうこうの皇子おうじ = 以仁王もちひとおう (もちひとおう) が平氏へいし打倒だとうを呼よびかけ、 各地かくちで 源氏げんじ が挙兵きょへいします。

戦たたかい年ねん結果けっか
富士川ふじかわの戦たたかい1 1 8 0源頼朝みなもとのよりともが平氏へいし軍ぐんを撃退げきたい
倶く利り伽か羅ら峠とうげの戦たたかい1 1 8 3源義仲みなもとのよしなかが平氏へいしを破やぶる
一いちのやノ谷の戦たたかい1 1 8 4源義経みなもとのよしつねが平氏へいしを破やぶる
屋島やしまの戦たたかい1 1 8 5同上どうじょう
壇ノ浦の戦いだんのうらのたたかい1 1 8 5源義経みなもとのよしつねが平氏へいしを滅ほろぼす (安徳天皇あんとくてんのう入水じゅすい)

大事だいじ: この戦たたかいは 平家物語へいけものがたり に詳くわしく描えがかれますが、 平家物語へいけものがたりは後世こうせいの文学ぶんがくであり、 史実しじつと文学ぶんがく表現ひょうげんを区別くべつして読よむ必要ひつようがあります。

7. ふりかえり

この章しょうで学まなんだことをふりかえりましょう。

  • 桓武天皇かんむてんのう と 平安京へいあんきょう 遷都せんと (7 9 4 年ねん) の理由りゆうを説明せつめいできる
  • 摂関政治せっかんせいじ のしくみと 藤原道長ふじわらのみちなが・藤原頼通ふじわらのよりみち の全盛ぜんせいを説明せつめいできる
  • 国風文化こくふうぶんか の文学ぶんがく (源氏物語げんじものがたり・枕草子まくらのそうし・古今和歌集こきんわかしゅう) と かな文字もじ の発達はったつを説明せつめいできる
  • 浄土信仰じょうどしんこう・末法思想まっぽうしそう・平等院鳳凰堂びょうどういんほうおうどう を説明せつめいできる
  • 武士の登場ぶしのとうじょう (源氏げんじ・平氏へいし、 平将門の乱たいらのまさかどのらん・藤原純友の乱ふじわらのすみとものらん) を説明せつめいできる
  • 院政いんせい (白河上皇しらかわじょうこう) と 平清盛たいらのきよもり の平氏へいし政権せいけん・日宋貿易にっそうぼうえき・壇ノ浦の戦いだんのうらのたたかいを説明せつめいできる

この章しょうの安全あんぜん配はい慮りょ (古典こてん学習がくしゅうの大切たいせつさ)

平安時代へいあんじだいの文学ぶんがくや史料しりょうを学まなぶときは、 つぎのことを心こころがけましょう。

  • 古典こてんは現代げんだい日本語にほんごと大おおきく違ちがう — そのままでは読よみ取とりが困難こんなん。 必かならず注釈ちゅうしゃく・現代げんだい語ご訳やくと一緒いっしょに読よむ
  • 文学作品ぶんがくさくひんと史実しじつを区別くべつ — 源氏物語げんじものがたりはフィクション、 平家物語へいけものがたりは史実しじつを元もとにした文学ぶんがく (軍記ぐんき物ぶつ)。 両者りょうしゃを 「歴史れきしの一いち次じ史料しりょう」 としてそのまま信しんじない
  • 古典こてんを読よむ体験たいけんは大切たいせつ — 千せん年ねん前まえの日本人にっぽんじんの感性かんせいに触ふれられる貴重きちょうな機会きかい。 学校がっこうで学まなぶ範囲はんいを超こえて興味きょうみを持もったら、 児童じどう・生徒せいと向むけの現代げんだい語ご訳やくから入はいるとよい
  • 古典こてんが読よめなくても自分じぶんを責せめない — 千せん年ねん前まえの言葉ことばを完璧かんぺきに理解りかいする必要ひつようはない。 大事だいじなのは 「当時とうじの人々ひとびとが何なにを感かんじて生いきていたか」 を想像そうぞうすること
  • 寺社じしゃ・文化財ぶんかざいを訪おとずれたら、 当時とうじの人々ひとびとの気持きもちを想像そうぞう — 平等院びょうどういんや法隆寺ほうりゅうじを見みるとき、 「なぜこんなものを作つくったのか」 を考かんがえる
  • 教科書きょうかしょや解説かいせつ書しょの内容ないようを 複数ふくすう比較ひかく する — 同おなじ出来事できごとでも視点してんが違ちがう

次じの章しょう: 第だい 5 章しょうでは、 源頼朝みなもとのよりともが開ひらいた 鎌倉幕府かまくらばくふ を学まなびます。 武士ぶしが政治せいじの表おもて舞台ぶたいに立たつ 鎌倉時代かまくらじだい (1 1 8 5 〜 1 3 3 3 年ねん) です。

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