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歴史

鎌倉かまくら時代じだい (武家ぶけ政権せいけん確立かくりつ)

最終確認日:

このしょうまなぶこと

だい 5 しょうは、 1 1 8 5 ねんから 1 3 3 3 ねんまでの 鎌倉時代かまくらじだいまなびます。 源頼朝みなもとのよりとも武士ぶしとしてはじめて 幕府ばくふひらき、 やく 1 5 0 ねんにわたる 武家政権ぶけせいけんはじまりました。

  • 源頼朝みなもとのよりとも による 鎌倉幕府かまくらばくふ成立せいりつ (年代ねんだい諸説しょせつ)
  • 御恩と奉公ごおんとほうこう守護しゅご地頭じとう制度せいど
  • 北条氏ほうじょうし による 執権政治しっけんせいじ御成敗式目ごせいばいしきもく
  • 元寇げんこう (ぶんながやく弘安こうあんやく) とその影響えいきょう
  • 鎌倉新仏教かまくらしんぶっきょう (法然ほうねん親鸞しんらん日蓮にちれん栄西えいさい道元どうげん一遍いっぺん)
  • 鎌倉文化かまくらぶんか (東大寺南大門とうだいじなんだいもん金剛力士像こんごうりきしぞう新古今和歌集しんこきんわかしゅう平家物語へいけものがたり)
  • 鎌倉幕府かまくらばくふ滅亡めつぼう後醍醐天皇ごだいごてんのう

大事だいじ: 鎌倉時代かまくらじだいのキーワードは 武家ぶけ政権せいけん主従しゅうじゅう関係かんけい です。 平安時代へいあんじだいまでの 「貴族きぞく政治せいじうごかす」 から、 「武士ぶし政治せいじうごかす」 へと 時代じだいおおきくわりました

1. 鎌倉かまくら幕府ばくふ成立せいりつ

頼朝よりとも政権せいけん確立かくりつ過程かてい

壇ノ浦の戦いだんのうらのたたかい (1 1 8 5 ねん) で平氏へいしほろぼしたのち源頼朝みなもとのよりともかまくら (現在げんざい神奈川かながわけん) を拠点きょてん政権せいけんきずきました。

ねん出来事できごと
1 1 8 5全国ぜんこく守護しゅご地頭じとう権利けんり朝廷ちょうていからみとめられる
1 1 9 2源頼朝みなもとのよりとも征夷大将軍せいいたいしょうぐん任命にんめいされる

鎌倉かまくら幕府ばくふ成立せいりつねん諸説しょせつあり

鎌倉幕府かまくらばくふいつ成立せいりつ したか」 には 諸説しょせつあり ます。

せつ根拠こんきょ「いいくにつくろう」 ひとし
1 1 9 2 ねん せつ源頼朝みなもとのよりとも征夷大将軍せいいたいしょうぐん就任しゅうにん「いいくに (1 1 9 2) つくろう」
1 1 8 5 ねん せつ守護しゅご地頭じとう設置せっち全国ぜんこく支配しはい確立かくりつ「いいはこ (1 1 8 5)」
1 1 8 3 ねん せつ朝廷ちょうてい頼朝よりとも東国とうごく支配しはい公認こうにん

ポイント: 近年きんねん教科書きょうかしょ1 1 8 5 ねんせつ採用さいようするものがおおいですが、 これも唯一ゆいいつ正解せいかいではありません。 「幕府ばくふとはなに」 の定義ていぎによって答えこたえわります。

鎌倉かまくらえらんだ理由りゆう

源頼朝みなもとのよりともはなぜ京都きょうとでなく かまくらえらんだのか。

理由りゆうくわしく
地形ちけいまもりやすさ三方さんぽうやま一方いっぽううみかこまれ、 めにくい
東国とうごく武士ぶしだん拠点きょてん源氏げんじ累代るいだい地盤じばんがある
京都きょうと朝廷ちょうていからの距離きょり干渉かんしょうけにくい

2. おん奉公ほうこう守護しゅご地頭じとう

おん奉公ほうこう

鎌倉幕府かまくらばくふ仕組しくみの中心ちゅうしん御恩と奉公ごおんとほうこう です。 これは 将軍しょうぐん御家人ごけにん主従しゅうじゅう関係かんけい で、 つぎのようにっています。

方向ほうこう内容ないよう
将軍しょうぐん御家人ごけにん (おん)領地りょうち本領安堵ほんりょうあんど (もとからの領地りょうちまもる) または 新恩給与しんおんきゅうよ (あたらしく領地りょうちあたえる)
御家人ごけにん将軍しょうぐん (奉公ほうこう)たたかいのさい軍役ぐんえき (兵士へいしとしてたたかう)、 平時へいじには 京都きょうと鎌倉かまくら警備けいび

大事だいじ: 御恩と奉公ごおんとほうこう関係かんけいは、 土地とちかいした信頼しんらい約束やくそく です。 この仕組しくみが武家ぶけ社会しゃかい基礎きそとなり、 江戸えど時代じだいまでつづきます。

守護しゅご地頭じとう

役職やくしょく役割やくわり場所ばしょ
守護しゅごくにごとに 1 ひと治安ちあん維持いじ御家人ごけにん統率とうそつ (だいぼんさんじょう)くに単位たんい
地頭じとう荘園しょうえんおおやけりょうごとに設置せっち年貢ねんぐ徴収ちょうしゅう治安ちあん維持いじ荘園しょうえんおおやけりょう単位たんい

守護しゅご地頭じとう全国ぜんこくかれ、 幕府ばくふ支配しはい全国ぜんこくひろがりました。 一方いっぽう朝廷ちょうていちからおおきくよわまりました。

鎌倉かまくら幕府ばくふ組織そしき

機関きかん役割やくわり
侍所さむらいどころ御家人ごけにん統率とうそつ軍事ぐんじ
政所まんどころ政治せいじ財政ざいせい
問注所もんちゅうじょ (もんちゅうじょ)訴訟そしょう裁判さいばん

3. 執権しっけん政治せいじ成敗せいばい式目しきもく

北条ほうじょう台頭たいとう

源頼朝みなもとのよりとも死後しごつま北条政子ほうじょうまさこ とその父北条時政ほうじょうときまさ政治せいじ主導しゅどうし、 やがて 北条氏ほうじょうし執権しっけん として幕府ばくふうごかす 執権政治しっけんせいじはじまりました。

当主とうしゅ代数だいすう業績ぎょうせき
北条時政ほうじょうときまさ初代しょだい執権しっけん政子まさこちち執権しっけんせい確立かくりつ
北条義時ほうじょうよしとき2 だい承久の乱じょうきゅうのらん朝廷ちょうていぐんやぶ
北条泰時ほうじょうやすとき3 だい御成敗式目ごせいばいしきもく制定せいてい
北条時宗ほうじょうときむね8 だい元寇げんこう対応たいおう

うけたまわひさらん

1 2 2 1 ねん後鳥羽上皇ごとばじょうこう北条義時ほうじょうよしとき 追討ついとう命令めいれいし、 朝廷ちょうていぐん幕府ばくふぐんたたかいました。 結果けっか幕府ばくふ圧勝あっしょう上皇じょうこうながされ、 朝廷ちょうていちからはさらによわまり、 幕府ばくふちから西国さいこくにもおよびました。

ポイント: 承久の乱じょうきゅうのらんさい北条政子ほうじょうまさこ御家人ごけにんあつめて 「頼朝よりともさまおんおも」 と演説えんぜつし、 結束けっそくかためたエピソードが有名ゆうめいです (吾妻鏡あづまかがみより)。

成敗せいばい式目しきもく

1 2 3 2 ねん北条泰時ほうじょうやすとき制定せいていした 御成敗式目ごせいばいしきもく (ごせいばいしきもく、 5 1 かじょう) は、 武家ぶけ社会しゃかいはじめての体系たいけいてき法律ほうりつ です。 御家人ごけにん同士どうし紛争ふんそうや、 守護しゅご地頭じとう義務ぎむなどをさだめました。

大事だいじ: 御成敗式目ごせいばいしきもくは 「武家ぶけ社会しゃかい慣習かんしゅう」 を文章ぶんしょうしたものであり、 朝廷ちょうてい律令りつりょうとはべつ系統けいとうほうです。 「ひとつのくにふたつの法体ほうたいけいがある」 状態じょうたいが、 江戸えど時代じだいまでつづきます。

4. もと寇 (こうむ襲来しゅうらい)

モンゴル帝国ていこく拡大かくだい

1 3 世紀せいき中央ちゅうおうアジアの モンゴル帝国もんごるていこく急速きゅうそく拡大かくだいし、 中国ちゅうごく征服せいふくして げん (げん) をてました (フビライ・ハン)。 げん日本にほんにも 朝貢ちょうこう (服属ふくぞく) を要求ようきゅうしましたが、 8 だい執権しっけん 北条時宗ほうじょうときむね はこれを拒否きょひしました。

ぶんながやく弘安こうあんの役

げんにわたって日本にほんんできました。 これを 元寇げんこう (げんこう、 または 蒙古襲来もうこしゅうらい もうこしゅうらい) といます。

たたかねん内容ないよう
文永の役ぶんえいのえき1 2 7 4げん軍と高麗こうらいぐんやく 3 まんにん北九州きたきゅうしゅう上陸じょうりく集団しゅうだん戦法せんぽうと 「てつはう」 (火薬かやく兵器へいき) で苦戦くせん
弘安の役こうあんのえき1 2 8 1げんぐんやく 1 4 まんにん来襲らいしゅう暴風雨ぼうふうう (いわゆる 神風かみかぜ) もかさなり撤退てったい

もと寇の影響えいきょう

元寇げんこう撃退げきたいできましたが、 その影響えいきょうおおきかった。

影響えいきょうくわしく
御家人ごけにん困窮こんきゅう戦費せんぴ自己じこ負担ふたん恩賞おんしょう不十分ふじゅうぶん (敵国てっこくから領地りょうちうばえない防衛ぼうえいせんだった)
徳政令とくせいれい発令はつれい1 2 9 7 年永仁の徳政令えいにんのとくせいれい御家人ごけにん借金しゃっきんをチャラにするも効果こうか限定げんてい
幕府ばくふへの不満ふまん御恩と奉公ごおんとほうこう信頼しんらい関係かんけいらぐ

神風かみかぜという解釈かいしゃく慎重しんちょう

神風かみかぜ日本にほんまもった」 という説明せつめいは、 当時とうじからおこなわれ、 だい世界せかい大戦たいせんの 「神風かみかぜ特別とくべつ攻撃こうげきたい」 の名前なまえにも使つかわれました。 しかし現在げんざい研究けんきゅうでは、 暴風雨ぼうふううだけでもとぐん撤退てったいしたわけでなく、 御家人ごけにん武力ぶりょく抵抗ていこうおおきな要因よういん だったと評価ひょうかされます。

大事だいじ: 歴史れきしてき出来事できごと後世こうせい政治せいじてき文脈ぶんみゃく解釈かいしゃくされやすい。 「神風かみかぜ」 という言葉ことばひとつでも、 中世ちゅうせい近代きんだい使つかわれかたちがうことをおさえるとよい。

5. 鎌倉かまくらしん仏教ぶっきょう

民衆みんしゅうひらかれた仏教ぶっきょう

平安時代へいあんじだいまでの仏教ぶっきょうおも貴族きぞくのもの でした。 鎌倉時代かまくらじだいには、 武士ぶし民衆みんしゅうにもかりやすい あたらしい仏教ぶっきょう次々つぎつぎまれました。

宗派しゅうは開祖かいそ特徴とくちょう
浄土宗じょうどしゅう法然ほうねん南無阿弥陀仏なむあみだぶつ」 ととなえればすくわれる (専修念仏せんしゅうねんぶつ)
浄土真宗じょうどしんしゅう親鸞しんらん法然ほうねん弟子でし。 「悪人正機説あくにんせいきせつ」 (悪人あくにんこそすくわれる)
時宗じしゅう一遍いっぺん踊念仏おどりねんぶつ全国ぜんこく遊行ゆぎょう
日蓮宗にちれんしゅう (法華宗ほっけしゅう)日蓮にちれん南無妙法蓮華経なむみょうほうれんげきょう」 ととなえる。 法華経ほけきょう重視じゅうし
臨済宗りんざいしゅう栄西えいさい禅宗ぜんしゅう一派いっぱ公家くげ武家ぶけひろがる
曹洞宗そうとうしゅう道元どうげん禅宗ぜんしゅう一派いっぱ只管打坐しかんたざ (しかんたざ、 ひたすら座禅ざぜん)
鎌倉大仏(高徳院の阿弥陀如来の青銅像)
鎌倉かまくら大仏だいぶつ(高徳院こうとくいん阿弥陀如来あみだにょらいぞう)。鎌倉かまくら時代じだい人々ひとびと寄付きふつくられた青銅せいどう大仏だいぶつで、浄土信仰じょうどしんこうひろがりをしめす。

鎌倉かまくらしん仏教ぶっきょう共通きょうつうてん

共通きょうつうてんくわしく
かりやすいおし念仏ねんぶつ題目だいもく座禅ざぜんと、 おこないがシンプル
民衆みんしゅうひらかれる貴族きぞくだけでなく武士ぶし農民のうみんまで
個人こじんすく個人こじん直接ちょくせつほとけむすばれる

ポイント: 鎌倉新仏教かまくらしんぶっきょう当時とうじすぐに主流しゅりゅうになったわけでなく、 旧来きゅうらい寺院じいん (天台宗てんだいしゅう真言宗しんごんしゅうとう) もちからつづけました。 しん仏教ぶっきょうおおきくひろがるのは室町むろまち戦国せんごくです。

6. 鎌倉かまくら文化ぶんか

武家ぶけふう力強ちからづよ文化ぶんか

鎌倉文化かまくらぶんか貴族きぞく文化ぶんか武家ぶけ文化ぶんか融合ゆうごうし、 力強ちからづよ写実しゃじつ特徴とくちょうとします。

建築けんちく彫刻ちょうこく

文化財ぶんかざい内容ないよう
東大寺南大門とうだいじなんだいもん源平の争乱げんぺいのそうらん焼失しょうしつ再建さいけん大仏様だいぶつさま (だいぶつよう) 建築けんちく
金剛力士像こんごうりきしぞう運慶うんけい快慶かいけい作。 力強ちからづよ写実しゃじつ表現ひょうげん
円覚寺舎利殿えんかくじしゃりどの禅宗様ぜんしゅうさま (ぜんしゅうよう) 建築けんちく

文学ぶんがく

作品さくひん内容ないよう
新古今和歌集しんこきんわかしゅう後鳥羽上皇ごとばじょうこういのち編纂へんさん (1 2 0 5 ねん)。 藤原ふじわら定家さだいえ
平家物語へいけものがたり平家へいけ興亡こうぼうえが軍記物ぐんきぶつ琵琶びわ法師ほうしかた
徒然草つれづれぐさ兼好法師けんこうほうし随筆ずいひつ
方丈記ほうじょうき鴨長明かものちょうめい随筆ずいひつ無常むじょうかん

大事だいじ: 平家物語へいけものがたりの 「祇園ぎおん精舎しょうじゃかねこえ諸行無常しょぎょうむじょうひびきあり」 は 無常観むじょうかん象徴しょうちょうする表現ひょうげん末法思想まっぽうしそうぎ、 武家ぶけ興亡こうぼうかさなってひろまりました。

7. 鎌倉かまくら幕府ばくふ滅亡めつぼう

御家人ごけにん不満ふまん

元寇げんこう後、 御家人ごけにん借金しゃっきん困窮こんきゅう恩賞おんしょう不足ふそく幕府ばくふ不満ふまんつのらせました。 また 北条氏ほうじょうし専横せんおう (とくむね専制せんせいとくそうせんせい) も反感はんかんまねきました。

後醍醐天皇ごだいごてんのう倒幕とうばく

1 3 1 8 ねん即位そくい後醍醐天皇ごだいごてんのう は、 朝廷ちょうていちからもどそうと倒幕とうばく計画けいかくしました。 1 3 3 1 ねん元弘の変げんこうのへん一度いちど失敗しっぱいしましたが、 幕府ばくふ裏切うらぎった 足利尊氏あしかがたかうじ六波羅探題ろくはらたんだい攻撃こうげき、 また 新田義貞にったよしさだ鎌倉かまくら攻略こうりゃくし、 1 3 3 3 ねん鎌倉幕府かまくらばくふ滅亡めつぼう しました。 やく 1 5 0 ねん武家ぶけ政権せいけんでした。

たてたけし新政しんせい

後醍醐天皇ごだいごてんのうは 1 3 3 4 ねん公家くげ中心ちゅうしん政治せいじ = 建武の新政けんむのしんせい (けんむのしんせい) をはじめましたが、 武士ぶし不満ふまんおおきく、 わずか 2 ねんほどで失敗しっぱいしました。 1 3 3 6 ねん足利尊氏あしかがたかうじ反旗はんきひるがえし、 やがて 室町幕府むろまちばくふひらきます (だい 6 しょう)。

8. ふりかえり

このしょうまなんだことをふりかえりましょう。

  • 源頼朝みなもとのよりとも鎌倉幕府かまくらばくふひらいたこと (年代ねんだい諸説しょせつ、 1 1 8 5 せつ主流しゅりゅう) を説明せつめいできる
  • 御恩と奉公ごおんとほうこう守護しゅご地頭じとう仕組しくみを説明せつめいできる
  • 北条氏ほうじょうし執権政治しっけんせいじ承久の乱じょうきゅうのらん御成敗式目ごせいばいしきもく説明せつめいできる
  • 元寇げんこう (文永の役ぶんえいのえき弘安の役こうあんのえき) とその影響えいきょう (御家人ごけにん困窮こんきゅう徳政令とくせいれい) を説明せつめいできる
  • 鎌倉新仏教かまくらしんぶっきょう の 6 宗派しゅうは (法然ほうねん親鸞しんらん一遍いっぺん日蓮にちれん栄西えいさい道元どうげん) をえる
  • 鎌倉文化かまくらぶんか (東大寺南大門とうだいじなんだいもん金剛力士像こんごうりきしぞう平家物語へいけものがたり徒然草つれづれぐさ) を説明せつめいできる
  • [ ]後醍醐天皇ごだいごてんのう足利尊氏あしかがたかうじによる 鎌倉幕府かまくらばくふ滅亡めつぼう (1 3 3 3) と 建武の新政けんむのしんせい失敗しっぱい説明せつめいできる

このしょう安全あんぜんはいりょ (城跡じょうせき古戦場こせんじょうマナー)

鎌倉かまくら寺社じしゃ城跡じょうせき古戦場こせんじょうおとずれるときは、 つぎのマナーをかならまもりましょう。

  • 城跡じょうせき古戦場こせんじょう史跡しせきおおくは 文化財保護法ぶんかざいほごほう保護ほごされ、 いしかえることは禁止きんし
  • 金属きんぞく探知たんちでの探索たんさく厳禁げんきん遺物いぶつうごかすと学術がくじゅつ価値かちうしなわれ、 法律ほうりつ違反いはんにもなる
  • 戦没せんぼつしゃ慰霊いれい にはしずかにれいくす — 個人こじん信仰しんこう強制きょうせいしないが、 さわがない・写真しゃしんるなら許可きょかたしかめる
  • 元寇げんこう防塁ぼうるい」 (福岡ふくおか) や 「壇ノ浦だんのうら」 (山口やまぐちけん) などの史跡しせきおとずれるときは、 解説かいせつばんみ、 安全あんぜん経路けいろまも
  • 山寺やまでら山城やましろ にはきゅう階段かいだんがけがある — あるきやすいくつもの携帯けいたい電話でんわかなら携行けいこう
  • 寺院じいん神社じんじゃ でのマナー (帽子ぼうしる、 写真しゃしん撮影さつえい制限せいげんまもる、 さわがない) はだい 3 しょう同様どうよう
  • たたかいの史実しじつまなぶときは 敵国てっこく」 という表現ひょうげん安易あんい使つかわない — モンゴル帝国ていこくげん兵士へいしもそれぞれのくにきるひとであった。 客観きゃっかんてき出来事できごとまな

しょう: だい 6 しょうでは、 足利尊氏あしかがたかうじひらいた 室町幕府むろまちばくふ から、 応仁の乱おうにんのらん戦国時代せんごくじだい鉄砲てっぽうキリスト教伝来きりすときょうでんらい までをまなびます。

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