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歴史

安土あづち桃山ももやま・江戸えど (近世きんせいの発展はってんと終おわり)

最終確認日:

この章しょうで学まなぶこと

第だい 6 章しょうでは、 応仁の乱おうにんのらん (1467) から戦国時代せんごくじだいが始はじまり、 鉄砲てっぽうとキリスト教きりすときょうが伝来でんらいしたところまで学まなびました。

第だい 7 章しょうでは、 戦国せんごくの世よを統一とういつした 3 人ひとの英雄えいゆう (織田信長おだのぶなが・豊臣秀吉とよとみひでよし・徳川家康とくがわいえやす) と、 1603 年ねんに始はじまった 江戸幕府えどばくふ の約やく 260 年ねんの歴史れきしを学まなびます。 江戸時代えどじだいは、 戦争せんそうのない太平たいへいの世よが長ながく続つづき、 独自どくじの文化ぶんか (元禄文化げんろくぶんか・化政文化かせいぶんか) が花開はなひらいた一方いっぽうで、 鎖国さこく によって世界せかいの動うごきから取とり残のこされていく時代じだいでもあります。

そして 1853 年ねん、 アメリカの ペリーぺりー が黒船くろふねで来航らいこうしたことをきっかけに、 江戸えど幕府ばくふは急速きゅうそくに衰おとろえ、 1867 年ねんの 大政奉還たいせいほうかん によって 260 年ねんの歴史れきしを閉とじます。 次つぎの明治めいじ時代じだいへの大おおきな転換てんかん点てんを見みていきましょう。

  • 織田信長おだのぶなが・豊臣秀吉とよとみひでよし がどのように戦国せんごくの世よを統一とういつしたかを理解りかいする
  • 太閤検地たいこうけんち と 刀狩かたながり が日本にほん社会しゃかいに与あたえた変化へんかを学まなぶ
  • 徳川家康とくがわいえやすが 関ヶ原の戦いせきがはらのたたかい から 江戸幕府えどばくふ を開ひらいた流ながれを整理せいりする
  • 幕藩体制ばくはんたいせい と 参勤交代さんきんこうたい などの大名だいみょう統制とうせいのしくみを理解りかいする
  • 鎖国さこく がなぜ行おこなわれ、 どんな影響えいきょうを与あたえたかを考かんがえる
  • 元禄文化げんろくぶんか と 化政文化かせいぶんか の違ちがいを整理せいりする
  • 黒船くろふね来航らいこうから 大政奉還たいせいほうかん までの流ながれを理解りかいする

学習がくしゅうのポイント: 江戸えど時代じだいは 「鎖国さこくで遅おくれた時代じだい」 と単純たんじゅんに言いわれがちですが、 実じつは 教育きょういく水準すいじゅん・治安ちあん・文化ぶんかの質しつ はヨーロッパに引ひけを取とらず高たかい水準すいじゅんにありました。 ただし、 19 世紀せいきの世界せかいの急激きゅうげきな変化へんかに対応たいおうできなかったことが幕末ばくまつの危機ききにつながります。

1. 織田おだ信長のぶながの統一とういつ事業じぎょう

白い城天守閣の外観
姫路城ひめじじょう (兵庫ひょうご県けん) — 17 世紀せいき初頭しょとう、 池田輝政いけだてるまさが築きずいた城しろ。 「白鷺城しらさぎじょう」 ともよばれる。 1993 年ねんユネスコ世界せかい遺産いさん (日本にほん初はつ)。

信長のぶながの登場とうじょう

織田信長おだのぶなが (1534-1582) は、 尾張おわり (現在げんざいの愛知あいち県けん西部せいぶ) の小ちいさな大名だいみょうの家いえに生うまれました。 1560 年ねん、 大軍たいぐんを率ひきいて尾張おわりに攻せめ込こんできた今川義元いまがわよしもとを 桶狭間の戦いおけはざまのたたかい で破やぶり、 一気いっきに名なを上あげます。

信長のぶながの天下てんか統一とういつへの歩あゆみ

年ねんできごと意味いみ
1560桶狭間の戦いおけはざまのたたかい今川義元いまがわよしもとを破やぶり頭角とうかくを現あらわす
1568足利義昭あしかがよしあきを奉ほうじて京都きょうと上洛じょうらく室町むろまち幕府ばくふを再建さいけんする形かたちで実権じっけん掌握しょうあく
1571比叡山ひえいざん延暦寺えんりゃくじ焼やき討うち抵抗ていこうする仏教ぶっきょう勢力せいりょくを実力じつりょくで排除はいじょ
1573室町幕府むろまちばくふを滅ほろぼす足利義昭あしかがよしあきを追放ついほう、 室町むろまち幕府ばくふの終焉しゅうえん
1575長篠の戦いながしののたたかい鉄砲てっぽう 3000 挺ていで武田勝頼たけだかつよりの騎馬きば隊たいを撃破げきは
1576安土城あづちじょう築城ちくじょう開始かいし琵琶湖びわこ畔ほとりに壮大そうだいな天守てんしゅを持もつ城しろを建設けんせつ
1582本能寺の変ほんのうじのへん家臣かしん明智光秀あけちみつひでに襲撃しゅうげきされ京都きょうとの本能寺ほんのうじで自害じがい

信長のぶながの革新かくしん的てきな政策せいさく

織田信長おだのぶながは古ふるい権威けんいにとらわれず、 新あたらしい政策せいさくを次々つぎつぎに行おこないました。

政策せいさく内容ないよう
楽市・楽座らくいちらくざ市場しじょうの税ぜいを免除めんじょし、 商人しょうにん組合くみあい (座ざ) の特権とっけんを廃止はいし。 商しょう工業こうぎょうを自由じゆう化か
関所せきしょの廃止はいし領内りょうないの関所せきしょを廃止はいしして物流ぶつりゅうを円滑えんかつにした
キリスト教きりすときょうの保護ほご宣教師せんきょうしを保護ほごし、 南蛮貿易なんばんぼうえきを奨励しょうれい
鉄砲てっぽうの大量たいりょう使用しよう長篠の戦いながしののたたかいで鉄砲てっぽうの威力いりょくを示しめした
兵農分離へいのうぶんりの先駆さきがけ武士ぶしを城下町じょうかまちに集あつめ、 農民のうみんから切きり離はなす動うごきを始はじめた

大事だいじ: 本能寺の変ほんのうじのへん (1582 年ねん 6 月つき) は、 信長のぶながが天下てんか統一とういつ目前もくぜんで家臣かしんに裏切うらぎられた事件じけんです。 信長のぶながの死後しご、 すぐに京都きょうとに駆かけつけた 豊臣秀吉とよとみひでよし (羽柴秀吉はしばひでよし) が山崎の戦いやまざきのたたかいで明智あけち光秀みつひでを討うち、 信長のぶながの後継者こうけいしゃとなりました。

2. 豊臣とよとみ秀吉ひでよしの天下てんか統一とういつ

秀吉ひでよしの天下てんか統一とういつ

豊臣秀吉とよとみひでよし (1537-1598) は、 尾張おわりの農民のうみん出身しゅっしんという説せつのある武将ぶしょうで、 信長のぶながに仕つかえて出世しゅっせしました。 信長のぶながの死後しご、 短期間たんきかんで全国ぜんこくを統一とういつします。

年ねんできごと
1582山崎の戦いやまざきのたたかいで明智光秀あけちみつひでを討うつ
1583賤ヶ岳の戦いしずがたけのたたかいで柴田勝家しばたかついえを破やぶる
1583大坂城おおさかじょう築城ちくじょう開始かいし
1585関白かんぱくに就任しゅうにん (公家くげの最高さいこう位い)
1586太政大臣だじょうだいじんに就任しゅうにん、 「豊臣とよとみ」 の姓せいを受うける
1587九州きゅうしゅう平定へいてい (島津氏しまつしを降くだす)
1590小田原征伐おだわらせいばつで北条氏ほうじょうしを倒たおし、 全国ぜんこく統一とういつを完成かんせい
1592朝鮮出兵ちょうせんしゅっぺい (文禄ぶんろくの役やく)
1597朝鮮出兵ちょうせんしゅっぺい (慶長けいちょうの役やく)
1598秀吉ひでよし死去しきょ

太閤たいこう検地けんち

太閤検地たいこうけんち は、 秀吉ひでよしが 1582 年ねんから全国ぜんこくで行おこなった土地とち調査ちょうさです。 全国ぜんこくの田畑たはたの面積めんせき・収穫しゅうかく量りょう・耕作こうさく者しゃをすべて統一とういつ基準きじゅんで記録きろくしました。

太閤たいこう検地けんちのポイント意味いみ
石高制こくだかせい の確立かくりつ収穫しゅうかく量りょうを 「石こく」 で表あらわす統一とういつ基準きじゅん。 大名だいみょうの領地りょうちも 「○○万まん石せき」 で表あらわすように
一地一作人いっちいっさくにんの原則げんそく1 つの土地とちには 1 人ひとの耕作こうさく者しゃ。 中世ちゅうせいの複雑ふくざつな権利けんり関係かんけいを整理せいり
荘園しょうえんの消滅しょうめつ平安へいあん時代じだいから続つづいた荘園しょうえん制度せいどが事実じじつ上じょう消滅しょうめつ
年貢ねんぐの安定あんてい全国ぜんこく一律いちりつの基準きじゅんで年貢ねんぐを集あつめやすくなった

刀狩かたながり

1588 年ねん、 秀吉ひでよしは 刀狩かたながり の命令めいれいを出だしました。 農民のうみんから刀かたな・弓ゆみ・槍やり・鉄砲てっぽうなどのすべての武器ぶきを取とり上あげる政策せいさくです。

大事だいじ: 太閤検地たいこうけんち (土地とちは農民のうみんが耕たがやす) と刀狩かたながり (武器ぶきは武士ぶしだけが持もつ) によって、 兵農分離へいのうぶんり が完成かんせいしました。 これは 「武士ぶしは政治せいじと戦たたかい、 農民のうみんは耕作こうさく、 商人しょうにんは商売しょうばい」 という身分みぶんの固定こてい化かにつながり、 江戸えど時代じだいの 士農工商しのうこうしょう の身分みぶん制せいの基礎きそになりました。

朝鮮ちょうせん出兵しゅっぺい

秀吉ひでよしは晩年ばんねん、 明みんの征服せいふくを企くわだてて 2 度どにわたって朝鮮ちょうせんに出兵しゅっぺいしました (文禄の役ぶんろくのやく・慶長の役けいちょうのやく)。 しかし李舜臣りしゅんしんらの抵抗ていこうにあい、 秀吉ひでよしの死後しごに撤退てったいしました。 この出兵しゅっぺいは 朝鮮ちょうせん半島はんとうに大おおきな被害ひがい をもたらし、 のちの日にち朝ちょう関係かんけいに影かげを落おとしました。 多おおくの陶工とうこうが日本にほんに連つれて来きたられ、 有田焼ありたやき・薩摩焼さつまやきなどの陶磁器とうじきが発展はってんする一因いちいんにもなりました。

3. 徳川とくがわ家康いえやすと江戸えど幕府ばくふの成立せいりつ

関ヶ原せきがはらの戦たたかい (1600)

秀吉ひでよしの死後しご、 後継者こうけいしゃの豊臣秀頼ひでよりはまだ幼おさなく、 政治せいじの実権じっけんをめぐって徳川家康とくがわいえやすと石田三成いしだみつなりが対立たいりつしました。 1600 年ねん、 両者りょうしゃは 関ヶ原の戦いせきがはらのたたかい (岐阜ぎふ県けん) で激突げきとつ。 家康いえやす率ひきいる 東軍ひがしぐん が三成みつなり率ひきいる 西軍にしぐん を破やぶり、 家康いえやすが天下てんかの実権じっけんを握にぎりました。

江戸えど幕府ばくふの成立せいりつ

年ねんできごと
1600関ヶ原の戦いせきがはらのたたかい
1603徳川家康とくがわいえやすが征夷大将軍せいいたいしょうぐんに就任しゅうにん、 江戸えど (現在げんざいの東京とうきょう) に 江戸幕府えどばくふ を開ひらく
1605家康いえやすは将軍しょうぐんを息子むすこ徳川秀忠ひでただに譲ゆずり、 大御所おおごしょとして実権じっけんを握にぎり続つづける
1614-1615大坂の陣おおさかのじんで豊臣氏とよとみしを滅ほろぼす
1616徳川とくがわ家康いえやす死去しきょ

幕まく藩はん体制たいせい

江戸えど幕府ばくふは、 幕府ばくふ (中央ちゅうおう政府せいふ) が 藩はん (大名だいみょうの領地りょうち) を統制とうせいする 幕藩体制ばくはんたいせい を作つくりました。

大名だいみょうの種類しゅるい内容ないよう
親藩しんぱん徳川とくがわ家かの親戚しんせき。 御三家ごさんけ (尾張おわり・紀伊きい・水戸みと) が代表だいひょう
譜代ふだい関ヶ原せきがはら以前いぜんから徳川とくがわに仕つかえていた大名だいみょう。 幕府ばくふの要職ようしょくに就つく
外様とざま関ヶ原せきがはらのあとで徳川とくがわに従したがった大名だいみょう。 江戸えどから遠とおい地ちに配置はいち (薩摩さつま・長州ちょうしゅう・加賀かがなど)

大名だいみょう統制とうせいのしくみ

幕府ばくふは大名だいみょうを厳きびしく統制とうせいするために、 次つぎのような制度せいどを設もうけました。

制度せいど内容ないよう
武家諸法度ぶけしょはっと1615 年ねん制定せいてい。 大名だいみょうの行動こうどうを厳きびしく規制きせいする法律ほうりつ
参勤交代さんきんこうたい1635 年ねん、 3 代将だいしょう軍ぐん徳川家光とくがわいえみつが制度せいど化か。 大名だいみょうは 1 年ねんおきに江戸えどと領地りょうちを行いき来きし、 妻子さいしは江戸えどに住すまわせる
改易かいえき・減封げんぽう違反いはんした大名だいみょうは領地りょうち没収ぼっしゅう・領地りょうち削減さくげん
一国一城令いっこくいちじょうれい大名だいみょうは領地りょうち内ないに 1 つの城しろしか持もてない

大事だいじ: 参勤交代さんきんこうたいは大名だいみょうにとって大おおきな経済けいざい的てき負担ふたんとなり、 幕府ばくふの力ちからを強つよめる働はたらきをしました。 同時どうじに、 各地かくちの大名だいみょう行列ぎょうれつが街道かいどうを行いき来きすることで、 五街道ごかいどう (東海道とうかいどうなど) の宿場しゅくば町まちが栄さかえ、 日本にほんの交通こうつう網もうの発展はってんにもつながりました。

身分みぶん制度せいど

江戸えど時代じだいは身分みぶんが固定こてい化かされた 士農工商しのうこうしょう の時代じだいと言いわれます。

  • 武士ぶし: 政治せいじと軍事ぐんじを担当たんとう。 帯刀たいとうの特権とっけんを持もつ
  • 百姓ひゃくしょう (農民のうみん): 全ぜん人口じんこうの約やく 85%。 年貢ねんぐを納おさめる
  • 町人ちょうにん (職人しょくにん・商人しょうにん): 都市としに住すむ
  • 身分みぶんの外そとに置おかれた人々ひとびともいた

4. 鎖国さこくの完成かんせい

鎖国さこくへの道みち

江戸えど幕府ばくふは、 当初とうしょは南蛮貿易なんばんぼうえきや朱印船貿易しゅいんせんぼうえき (東南とうなんアジアとの貿易ぼうえき) を奨励しょうれいしていました。 しかし、 キリスト教きりすときょうの広ひろがりが幕府ばくふの支配しはいを脅おびやかすと考かんがえるようになり、 次第しだいにキリスト教きょうと海外かいがいとの関係かんけいを制限せいげんしていきます。

年ねんできごと
1612幕府ばくふ領りょうでキリスト教きりすときょう禁止きんし (禁教きんきょう令れい)
1613全国ぜんこくで禁教きんきょう令れい
1623イギリスが日本にほんから撤退てったい
1624スペイン船せんの来航らいこう禁止きんし
1633奉書船ほうしょせん以外いがいの海外かいがい渡航とこう禁止きんし
1635日本人にっぽんじんの海外かいがい渡航とこう・帰国きこくを全面ぜんめん禁止きんし
1637-1638島原・天草一揆しまばらあまくさいっき (島原の乱しまばらのらん)
1639ポルトガル船せんの来航らいこう禁止きんし
1641オランダ商館しょうかんを長崎ながさきの 出島でじま に移うつす。 鎖国さこく の完成かんせい

島原しまばら・天草あまくさ一揆いっき

1637 年ねん、 島原しまばら (長崎ながさき県けん) と天草あまくさ (熊本くまもと県けん) の農民のうみんとキリシタンが、 16 歳としの少年しょうねん天草四郎あまくさしろう (益田ますだ時貞ときさだ) を首領しゅりょうに立たてて一揆いっきを起おこしました。 重おもい年貢ねんぐとキリシタン弾圧だんあつへの反発はんぱつが原因げんいんです。 幕府ばくふは約やく 12 万まん人にんの軍勢ぐんぜいで鎮圧ちんあつし、 約やく 4 ヶ月かげつかかりました。 この事件じけんで幕府ばくふはキリスト教きりすときょうへの警戒けいかいを強つよめ、 鎖国さこくを急いそぎました。

鎖国さこく下かの 4 つの窓口まどぐち

鎖国さこくとは言いっても、 完全かんぜんに閉とざしていたわけではありません。 4 つの窓口まどぐちで世界せかいとつながっていました。

窓口まどぐち相手あいて内容ないよう
長崎ながさき (出島でじま)オランダ・中国ちゅうごく唯一ゆいいつの幕府ばくふ直轄ちょっかつの貿易ぼうえき港こう
対馬つしま藩はん朝鮮ちょうせん朝鮮通信使ちょうせんつうしんしが江戸えどに来訪らいほう
薩摩さつま藩はん琉球りゅうきゅう王国おうこく1609 年ねんに薩摩さつまが琉球りゅうきゅうを支配しはい下かに
松前まつまえ藩アイヌあいぬ蝦夷地えぞち (北海道ほっかいどう) との交易こうえき

大事だいじ: 鎖国さこくによって日本にほんは約やく 200 年間ねんかん、 大だい規模きぼな戦争せんそうもなく独自どくじの文化ぶんかを発展はってんさせました。 一方いっぽうで、 産業革命さんぎょうかくめいや近代きんだい化かの動うごきから取とり残のこされ、 19 世紀せいき後半こうはんに大おおきな立たち遅おくれを経験けいけんすることになります。

5. 江戸えど時代じだいの産業さんぎょうと文化ぶんか

産業さんぎょうの発達はったつ

江戸えど時代じだいは太平たいへいの時代じだいが続つづいたため、 農業のうぎょう・漁業ぎょぎょう・鉱業こうぎょう・手工業しゅこうぎょうが発達はったつしました。

産業さんぎょう発達はったつした内容ないよう
農業のうぎょう新田開発にったかいはつが進すすみ、 全国ぜんこくの耕地こうち面積めんせきが約やく 2 倍ばいに。 備中鍬びっちゅうぐわ・千歯こきせんばこきなど農具のうぐの改良かいりょう
商業しょうぎょう江戸えど・大坂おおさか・京都きょうとの三さん都とが発展はってん。 両替商りょうがえしょう (現在げんざいの銀行ぎんこう) が活躍かつやく
交通こうつう五街道ごかいどう (東海道とうかいどう・中山道なかせんどう・甲州こうしゅう街道かいどう・奥州おうしゅう街道かいどう・日光にっこう街道かいどう) が整備せいび、 西廻り航路にしまわりこうろ・東廻り航路ひがしまわりこうろが開通かいつう
漁業ぎょぎょう捕鯨ほげい・いわし漁いわしりょうが発達はったつ

元禄げんろく文化ぶんか (17 世紀せいき後半こうはん-18 世紀せいき初頭しょとう、 上方かみがた中心ちゅうしん)

5 代将だいしょう軍ぐんとくがわ徳川綱吉つなよしのころ、 上方かみがた (京都きょうと・大阪おおさか) の町人ちょうにんを中心ちゅうしんとした 元禄文化げんろくぶんか が栄さかえました。

分野ぶんや代表だいひょう者しゃ・作品さくひん
小説しょうせつ井原西鶴いはらさいかく (浮世草子うきよぞうし、 「日本にほん永代えいたい蔵くら」 など)
俳諧はいかい松尾芭蕉まつお ばしょう (「奥おくの細道ほそみち」)
歌舞伎かぶき・人形浄瑠璃にんぎょうじょうるり近松門左衛門ちかまつもんざえもん (「曽根崎そねざき心中しんじゅう」 など)
絵画かいが菱川師宣ひしかわもろのぶ (浮世絵うきよえの祖そ、 「見返みかえり美人びじん図ず」)
装飾そうしょく画が尾形光琳おがたこうりん (「燕子花かきつばた図ず屏風びょうぶ」)

化か政せい文化ぶんか (19 世紀せいき前半ぜんはん、 江戸えど中心ちゅうしん)

11 代将だいしょう軍ぐんとくがわ徳川家斉いえなりのころ (文化ぶんか・文政ぶんせい年間ねんかん) は、 江戸えどの町人ちょうにんを中心ちゅうしんとした 化政文化かせいぶんか が栄さかえました。

分野ぶんや代表だいひょう者しゃ・作品さくひん
小説しょうせつ十返舎一九じっぺんしゃいっく (「東海道とうかいどう中ちゅう膝栗毛ひざくりげ」)、 滝沢馬琴たきざわばきん (「南総里見八犬伝なんそうさとみはっけんでん」)
俳諧はいかい与謝蕪村よさ ぶそん・小林一茶こばやし いっさ
浮世絵うきよえ葛飾北斎かつしかほくさい (「冨とみ嶽たけ三さん十じゅう六ろく景けい」)・歌川広重うたがわひろしげ (「東海道とうかいどう五ご十じゅう三さん次じ」)・喜多川歌麿きたがわうたまろ (美人びじん画が)
学問がくもん本居宣長もとおりのりなが (国学こくがく、 「古事記伝こじきでん」)・杉田玄白すぎたげんぱく (蘭学らんがく、 「解体かいたい新書しんしょ」)

蘭学らんがく

鎖国さこく中も、 出島でじまのオランダ商館しょうかんを通つうじてヨーロッパの学問がくもんが伝つたわりました。 これを 蘭学らんがく と言いいます。

  • 1774 年ねん、 杉田玄白すぎたげんぱく・前野良沢まえのりょうたくが 解体新書かいたいしんしょ を翻訳ほんやく出版しゅっぱん (西洋せいよう医学いがく書しょの翻訳ほんやく)
  • 19 世紀せいき初はじめ、 伊能忠敬いのうただたかが日本にほん初はつの実測じっそく地図ちず大日本沿海輿地全図だいにほんえんかいよちぜんずを作成さくせい
  • シーボルト (オランダ商館しょうかんの医師いし) が長崎ながさきで鳴滝塾なるたきじゅくを開ひらき、 多おおくの日本人にっぽんじんを育そだてた

教育きょういくの発達はったつ

江戸えど時代じだいは教育きょういく水準すいじゅんが世界せかい的てきに見みても非常ひじょうに高たかい時代じだいでした。

  • 寺子屋てらこや: 庶民しょみんの子供こどもが読よみ書かきそろばんを学まなぶ。 幕末ばくまつには全国ぜんこくで約やく 1 万まん 5 千せん校こう
  • 藩校はんこう: 各かく藩はんが武士ぶしの子弟していのために設もうけた学校がっこう (会津藩あいづはんの日ひ新館しんかん、 長州藩ちょうしゅうはんの明倫めいりん館かんなど)
  • 私塾しじゅく: 適塾てきじゅく (緒方洪庵おがたこうあん)、 松下村塾しょうかそんじゅく (吉田松陰よしだしょういん) など

6. 江戸えど時代じだいの改革かいかくと社会しゃかいの動揺どうよう

三さん大改革だいかいかく

江戸えど時代じだいの中期ちゅうき以降いこう、 幕府ばくふの財政ざいせいは次第しだいに悪化あっかし、 何なん度ども改革かいかくが試こころみられました。

改革かいかく中心ちゅうしん人物じんぶつ時期じき内容ないよう
享保の改革きょうほうのかいかく8 代将だいしょう軍ぐんとくがわ徳川吉宗よしむね1716-1745目安箱めやすばこ設置せっち、 公事方御定書くじかたおさだめがき制定せいてい、 新田開発にったかいはつ奨励しょうれい
寛政の改革かんせいのかいかく松平定信まつだいらさだのぶ1787-1793厳きびしい倹約けんやく令れい、 棄捐令きえんれい (旗本はたもと・御家人ごけにんの借金しゃっきん帳消ちょうけし)
天保の改革てんぽうのかいかく水野忠邦みずのただくに1841-1843株かぶ仲間なかまの解散かいさん、 江戸えど・大阪おおさか周辺しゅうへんを幕府ばくふ直轄ちょっかつ領りょうに (失敗しっぱい)

百姓ひゃくしょう一揆いっきと打うちこわし

江戸えど時代じだい後期こうき、 飢饉ききんや年貢ねんぐの重おもさに苦くるしむ農民のうみんが 百姓一揆ひゃくしょういっき を起おこしたり、 都市としで米屋べいやなどを襲おそう 打ちこわしうちこわし が頻発ひんぱつするようになりました。

  • 天明の飢饉てんめいのききん (1782-1788): 火山かざん噴火ふんかと冷害れいがいが重かさなり、 数すう十じゅう万まん人にんが餓死がし
  • 天保の飢饉てんぽうのききん (1833-1839): 大だい規模きぼな飢饉ききん
  • 大塩平八郎の乱おおしおへいはちろうのらん (1837): 元もと幕府ばくふ役人やくにん大塩平八郎おおしおへいはちろうが大だい坂さかで武装ぶそう蜂起ほうき、 幕府ばくふを大おおきく動揺どうようさせた

7. 黒船くろふね来航らいこうと江戸えど幕府ばくふの終おわり

ペリー来航らいこう (1853)

1853 年ねん 6 月つき、 アメリカの東ひがしインド艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん ペリーぺりー が 4 隻せきの蒸気じょうき軍艦ぐんかん (黒船くろふね) を率ひきいて浦賀うらが (神奈川かながわ県けん) に来航らいこうし、 開国かいこくを要求ようきゅうしました。 幕府ばくふは翌年よくねん回答かいとうすると約束やくそくし、 ペリーは一旦いったん帰国きこく。

1854 年ねん、 ペリーは再ふたたび来航らいこうし、 幕府ばくふは 日米和親条約にちべいわしんじょうやく を結むすびました。 下田しもだと函館はこだての 2 港みなとを開ひらき、 アメリカ船せんに水みず・食料しょくりょう・燃料ねんりょうを供給きょうきゅうすることを約束やくそくしました。 約やく 200 年ねん続つづいた鎖国さこくが終おわりました。

不平等ふびょうどう条約じょうやく

1858 年ねん、 幕府ばくふの大老たいろう井伊直弼いいなおすけは朝廷ちょうていの許可きょかを得えないまま 日米修好通商条約にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく を結むすびました。

不平等ふびょうどう条約じょうやくのポイント内容ないよう
領事裁判権りょうじさいばんけん日本にほんにいるアメリカ人じんの犯罪はんざいを、 アメリカの領事りょうじが裁さばく (日本にほんの裁判さいばん権けんが及およばない)
関税自主権かんぜいじしゅけんの欠如けつじょ日本にほんが輸入ゆにゅう品ひんの関税かんぜいを自由じゆうに決きめられない
片へん務つとむ的てき最恵国さいけいこく待遇たいぐうアメリカが他国たこくに与あたえた特権とっけんは自動的じどうてきにアメリカも得えるが、 逆ぎゃくはない

大事だいじ: これらの 不平等条約ふびょうどうじょうやく は、 続つづいてイギリス・フランス・オランダ・ロシアとも結むすばれ (安政の五カ国条約あんせいのごかこくじょうやく)、 明治めいじ政府せいふにとって大おおきな課題かだいとして引ひき継つがれます。 完全かんぜんな改正かいせいは 1911 年ねんまで約やく 50 年ねんかかりました。

幕府ばくふへの反発はんぱつと倒幕とうばく運動うんどう

開国かいこくによって物価ぶっかが急上昇きゅうじょうしょうし、 庶民しょみんの生活せいかつが苦くるしくなりました。 また、 井伊直弼いいなおすけが反対はんたい派はを弾圧だんあつした 安政の大獄あんせいのたいごく (1858-1859) や、 1860 年ねんに井伊いいが暗殺あんさつされた 桜田門外の変さくらだもんがいのへん によって、 幕府ばくふの権威けんいは大おおきく揺ゆらぎました。

各地かくちで 尊王攘夷運動そんのうじょういうんどう (天皇てんのうを尊たっとび外国がいこくを打うち払はらう) が広ひろまり、 やがて 倒幕運動とうばくうんどう へと発展はってんします。 中心ちゅうしんになったのは薩摩藩さつまはんと長州藩ちょうしゅうはんでした。

年ねんできごと
1862生麦事件なまむぎじけん (薩摩さつま藩士はんしがイギリス人じんを斬きる)
1863薩英戦争さつえいせんそう・長州藩ちょうしゅうはんが下関しものせきで外国がいこく船せん砲撃ほうげき
1864四国艦隊下関砲撃事件しこくかんたいしものせきほうげきじけん (長州ちょうしゅうが英えい米べい仏ふつ蘭らんの砲撃ほうげきを受うける)
1866薩長同盟さっちょうどうめい 成立せいりつ (坂本龍馬さかもとりょうまが仲介ちゅうかい)
186715 代将だいしょう軍ぐん徳川慶喜とくがわよしのぶが 大政奉還たいせいほうかん (10 月つき)、 王政復古の大号令おうせいふっこのだいごうれい (12 月つき)
1868戊辰戦争ぼしんせんそう開始かいし

大事だいじ: 大政奉還たいせいほうかんは、 1867 年ねん 10 月つき 14 日ひに 15 代将だいしょう軍ぐん徳川慶喜とくがわよしのぶが政権せいけんを朝廷ちょうていに返上へんじょうした出来事できごとです。 1603 年ねんから始はじまった江戸幕府えどばくふ 264 年ねんの歴史れきしが幕まくを閉とじ、 続つづく 12 月つきの王政復古の大号令おうせいふっこのだいごうれいで 明治めいじ新しん政府せいふ が誕生たんじょうしました。

8. まとめと文化財ぶんかざいを訪おとずれる時ときの心こころがけ

この章しょうのまとめ

出来事できごと年ねん
本能寺の変ほんのうじのへん1582
太閤検地たいこうけんち開始かいし1582
刀狩かたながり1588
豊臣秀吉とよとみひでよし全国ぜんこく統一とういつ1590
関ヶ原の戦いせきがはらのたたかい1600
江戸幕府えどばくふ成立せいりつ1603
大坂の陣おおさかのじん (豊臣とよとみ氏し滅亡めつぼう)1614-1615
参勤交代さんきんこうたい制度せいど化か1635
島原・天草一揆しまばらあまくさいっき1637-1638
鎖国さこく完成かんせい (出島でじまにオランダ商館しょうかん)1641
ペリー来航ぺりーらいこう1853
日米修好通商条約にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく1858
薩長同盟さっちょうどうめい1866
大政奉還たいせいほうかん1867

文化ぶんかのキーワード

  • 元禄文化げんろくぶんか (上方かみがた町人ちょうにん中心ちゅうしん): 井原西鶴いはらさいかく・松尾芭蕉まつお ばしょう・近松門左衛門ちかまつもんざえもん・菱川師宣ひしかわもろのぶ
  • 化政文化かせいぶんか (江戸えど町人ちょうにん中心ちゅうしん): 葛飾北斎かつしかほくさい・歌川広重うたがわひろしげ・十返舎一九じっぺんしゃいっく
  • 蘭学らんがく: 杉田玄白すぎたげんぱく 「解体新書かいたいしんしょ」、 伊能忠敬いのうただたか日本にほん地図ちず

文化財ぶんかざいを大切たいせつに扱あつかう心こころがけ

江戸えど時代じだいの遺構いこうや文化財ぶんかざいは、 全国ぜんこくに数多かずおおく残のこされています。 訪問ほうもんする時ときは次つぎのことを心こころがけましょう。

  • 城跡じょうせき (姫路城ひめじじょう・彦根城ひこねじょう・松本城まつもとじょうなど) は触さわらない: 天守てんしゅの柱はしらや手てすりは数すう百ひゃく年ねん前まえの木材もくざいです。 強つよく触さわったり寄よりかかったりすると傷いたみます
  • 国宝こくほう・重要じゅうよう文化財ぶんかざいは撮影さつえい制限せいげんを守まもる: 多おおくの寺社じしゃ仏閣ぶっかくで、 室内しつないのフラッシュ撮影さつえいや三脚さんきゃく使用しようが禁止きんしされています。 表示ひょうじを必かならず確認かくにんしましょう
  • 古こ地図ちず・古文書こもんじょはガラスケース越ごしに見みる: 紙かみの文化財ぶんかざいは光ひかりと湿気しっけに弱よわく、 一度いちど傷いためると修復しゅうふくできません
  • 出島でじま (長崎ながさき) や首里城しゅりじょう (沖縄おきなわ) などの再建さいけん文化財ぶんかざいも大切たいせつに: 焼失しょうしつや再建さいけんを経へた文化財ぶんかざいもありますが、 同おなじく敬意けいいを持もって接せっしましょう
  • 修学旅行しゅうがくりょこうの集合しゅうごう場所ばしょでは静しずかに: 寺社じしゃや城跡じょうせきは祈いのりの場ば・歴史れきしを伝つたえる場ばです。 大声おおごえで騒さわぐのは避さけましょう

大事だいじ: 江戸えど時代じだいの文化財ぶんかざいは、 「ユネスコ世界遺産ユネスコせかいいさん」 (日光の社寺にっこうのしゃじ・古都京都の文化財こときょうとのぶんかざい・紀伊山地の霊場きいさんちのれいじょうなど) に多おおく登録とうろくされています。 これらは全ぜん人類じんるいの共通きょうつうの財産ざいさんです。 一人ひとりひとりが大切たいせつに扱あつかうことで、 何なん百ひゃく年ねんも先さきの人々ひとびともこれを見みることができます。 「来きた時ときよりも美うつくしく」 を心こころがけましょう。

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第だい 8 章しょうでは、 1868 年ねんの明治維新めいじいしんから始はじまる 近代きんだい日本にほん を学まなびます。 大日本帝国憲法だいにっぽんていこくけんぽうの制定せいてい、 日清戦争にっしんせんそう・日露戦争にちろせんそうの勝利しょうり、 産業革命さんぎょうかくめいの進展しんてん、 そして韓国併合かんこくへいごうまでの約やく 45 年間ねんかんを見みていきます。

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